生環境構築史

フィールド編 第1回

島根県海士町Ama-cho Shimane

フィールド・ノート

隠岐島海士町の大地と共同体をかいま見て

松田法子(京都府立大学)



[2023.10.9 UPDATE]

1. はじめに

初めて隠岐島に行きました。わたしの行程は3泊4日。初日は船で島に着いてすぐに丘の上の島前高校へ移動。先に到着していたメンバーたちと一緒に、生環境構築史についての基礎的レクチャーと島前高校生との交流の会「生環境構築から考える、今(まで)と未来」を、同校地域共創科の2年生教室で開催。3日目午前には島民ホールでフォーラム(詳細は別途参照)。

高校レク・島民フォーラムとも、わたしの担当した内容は、「生環境構築史とは何か」についての短い概説です。これを枕に、HBHメンバーの藤原辰史さん、中谷礼仁さん、青井哲人さん、日埜直彦さん、ゲストの松嶋健さん、遠藤秀一さんに、具体的な話をしていただきました。

高校レクとフォーラムの合間には、海士町役場・里山里海循環特命担当課課長の大野佳祐さんや、町経営補佐官の竹本吉輝さんらによるご案内あるいは自分たちのアレンジで、短時間ではあったものの隠岐島の各地を視察しました。また、各日の夕方以降には、大江和彦町長・吉元操副町長をはじめとする海士町役場のみなさん、多様なプロフィールをもつ若手移住者のみなさん、島前の地理的中心である焼火(たくひ)神社の松浦道仁宮司などと、隠岐のめぐみをありがたくいただきながら交流をもちました。

この記事に先だって、まずは、島前高校・町役場の関係者のみなさん、フォーラムに参加くださった島民や島外のみなさん、滞在中に協力・交流下さったすべてのみなさんに、この場を借りてお礼申し上げます。

2. 隠岐島の地学的歴史

今回の「生環境構築史・フィールド篇」の主な舞台になった海士町は、島前・島後の大きく二島からなる隠岐島のうち、島前の中ノ島全体を町域とします。中ノ島はかつて、海士、福井、宇受賀、豊田、保々見、知々井、多井、崎などの半農半漁の惣村と、それらの農地によって構成されていました(田中豊治『隠岐島の歴史地理学的研究』古今書院、1979)。

島前は、海士町が位置する中ノ島のほかに、西ノ島と知夫里島という三島が一体になって形作っている島で、これら三島は火山が陥没してできたカルデラの外輪山にあたります。海上に頭を出している部分の山の直径は東西約18km。京都でいうと、東の比叡山と西の愛宕山の間の距離とほぼ同じ。つまり島後は、京都のまちがすっぽり入る大きさのカルデラです。


知夫里島に残る牧畑景観。地味に乏しい火山性大地で収穫を得るため、3種類の畑作のあと放牧を行う四圃式農業のための石垣
すべて筆者撮影


隠岐諸島を構成している島前と島後は、日本列島には珍しい、かなり古い時代(第三紀、約600万年前)の火山がそっくり島になっているところです。日本列島がユーラシア大陸から離れて、おおむね日本海が形成された後、そこでは激しい噴火活動が起こっていました。そのなかの火山のうちの2つが、こんにち島根県の日本海沖に浮かぶこの二島なのです。

地球のテクトニクス(構築活動)が、わたしたちの生活する場と直接関わり合う地表近くの現象には、プレートの動きが引き起こす地震・津波や火山の噴火などがあります。隠岐の大地はこの場に唯一無二のものであると同時に、地球に共通するテクトニクスの姿を間近にみせてくれる場だということを、現地を訪問して強く実感できました。


船が海士町・菱浦港へ着く前に見えた岩

3. 隠岐島の人文学的歴史

今より約120〜130mも海面が低かった最終氷期の旧石器時代には、本州と隠岐島は地続きでした。しかし歴史時代以降は沖合の離島となった隠岐島を、朝廷や幕府は流刑地として利用します。それは、隠岐を遠流の地に定めた「大宝律」(701)以来、近世末に至るまで1,250年以上の長きにわたる歴史となりました。

北条義時に挙兵して敗れた後鳥羽上皇が、今から約800年前の1221年に隠岐へ流され、この地で没したことが有名です。行在所跡は海士町にあり、みなで訪ねてみるとそこは、大木が生い茂り、湧き水がある心地よい土地でした。


隠岐神社北側の土地。後鳥羽上皇の行在所跡とされている


後鳥羽上皇の配流をさらに遡る836年には、小野篁が1年ほどの短期間流されています。反骨の公家で、優れた歌人でもあった(そして京都の六道珍皇寺では、夜な夜な井戸から冥界に通い、閻魔大王の片腕をしていたという伝説がある)彼の罪状は、遣唐副使の任務を事情により拒否し、遣唐使事業を漢詩で諷刺して時の天皇を激怒させたというものでした。

江戸時代になると隠岐島は、五島列島・壱岐・天草と共に、京・大坂をはじめとする西国の流刑地となり、それは明治になるまで続きました。

本州から海で隔てられていること、脱出が容易ではないこと(後鳥羽天皇の111年後に隠岐へ流された後醍醐天皇は脱け出して南朝をつくるに至りましたが)など、遠流の地、遠島としての遠さと隔絶性とはしかし、京都など当時の日本の“中心”からみた場合の大地条件の解釈によるものにすぎません。

気候や食料・交通事情は時代によって変わりますが、隠岐島全体が地獄のように苦しい土地だったのかと言えばそうではなかったはずです。例えば明治25年の夏に今の海士町へ妻と滞在したラフカディオ・ハーンは、菱浦湾で水泳などを楽しみ、鏡面のように凪いだ湾を鏡浦と呼んで愛でました。そして私たちも、この限りなく静かな、初夏の夜の漆黒の湾を前に眠りました。


島後・都万(つま)の船小屋と、火成岩の岩山

4. 異質な到来者を包摂して運営される共同体

今の海士町については、移住者のまちとしての成功がよく知られています。いろいろな経歴と動機をもった人たちが、全国各地から転入し、現人口の約2割は移住者なのだそうです。そのみなさんは、水産や観光などの産業分野だけでなく、役場や学校といった、町の政治や教育の場でも前線で活躍されています。

次の話は、そんな若い移住者の方たちとの懇親の席で聞いたことです。

移住初日、近所の人が彼女を40軒くらいの家に連れて行ったそうです。その翌日から、玄関先には野菜が置かれているようになりました。その後の島生活では、買い物はほとんどしなくてよいし、ネット注文で欲しいものもだんだんなくなったのだそうです。彼女にとって海士町は、人を受け入れ、大切にする優しさに満ちた土地であり、突き詰めれば島の人たちが魅力的だからここにいるのだと思う、ということでした。

来島して数年ばかりのよそ者・若者に、町の運営の大事な一部を手渡す。限られた土地条件のなかで、なるべく不足なく暮らすための互助が、当たり前にある。

そんな文化が海士町に息づいていることの背景には、ここが離島であるというだけでなく、遠流の島だったというその歴史も関係しているのではないか、と、ふと思いました。

いつどんな人がやって来るのかわからないのが流刑地です。そして流刑者は、その土地で生きていきます。生活していきます。時によれば、家族をつくり、子孫を残し、島の社会のれっきとした構成員になることもあったのではないか。

海士町で見聞きした互助的生活と、不思議な活気に賑わう共同体の様子、そしてふと心に浮かんだことが京都へ戻ってからも引っかかり、流人と島の人たちの関係について何か伝わっていることがあるか、焼火神社の松浦宮司に尋ねてみることにしました。柳田國男や宮本常一を受け入れてきた社です。

すると、松浦宮司自身が『隠岐の文化財』という冊子で最近紹介されたという、『近世後期隠岐嶋流人の研究』(清文堂、2021)という本のことを教えていただきました。この本は、島根大学で長く教鞭をとられていた松尾壽氏による研究の集大成で、焼火神社の文書を含む隠岐各地の史料を確認し、また流人の出身地も訪ねてまとめられた興味深い労作です。

本書によれば、隠岐への流人は近世初期までは身分の高い人々が多く、近世中期以降は、僧侶や武士のほか、町人、百姓、無宿人など、比較的庶民層の流人が中心になったようです。

罪状には、流刑理由として一般的に多かった博打などがありましたが、隠岐の流人で特に多数を占めたのは、比較的軽微な罪(例として劇場への無銭入場・口論など)によって、京都や大坂(大阪)など当人の生活地であった都市部やその周辺国から追放(御構払)となり、しかし周辺農村部などでは生計が立ち行かず、御構払となった地域に(時には親の介抱などの理由も含めて)戻っていたところを目明かしや役人に見つかる、ということを繰り返すうち、雪だるま式に罪が重くなって流罪に至った、という人たちだったそうです。

流人は、島でどんな暮らしをしていたのでしょうか。

但馬国出石(今の兵庫県北部)の藩士だったある流人の記録によると、船が島前に着くと役所から「生業は何でも勝手次第にやって生きていきなさい」と申し渡され、配分先の庄屋宅を経て集落の一画に小屋がけし、自活しました。京都では一時内裏に務めていたこの流人は、ひとかどの文人として扱われ、求められて和歌なども詠み、島の娘と結婚して子孫も残しています。なお流人の数がピークに達した1800〜1802年の3年間には、島前で20人の男性流人が島民と結婚した記録が確認されています。非公式の妻帯がさらにどのくらいあったかはわかりません。そしてまた記録の範囲では、結婚した男性流人は同時期の他の流人より10年ほども寿命が長かったようです。

隠岐の集落それぞれに何人の流人を配分するかは、その集落の村高(生産力)によって決められていました。多くの流人は農作業か陸上での漁業関係作業を手伝い、現物報酬を受けて暮らしていたそうです。なかには、田畑を預かって自分で耕作したり、商いをしたり、立派な家を建てるほど稼ぐ者もいました。流人の家はまた必ずしも村はずれにあったわけではなく、集落の中心部にも建てられました。特別な技術を持った者や学のある者は重宝がられ、また病弱者や高齢者は村で養われたそうです。

ほとんどの流人はその後の生涯を島で送りましたが、希に赦免により故郷に戻る流人もありました。しかしそのなかには、再び隠岐に戻る流人がいたことがわかっています。島に戻ると、その流人は村人に編入されました。

松尾壽氏は、離島特有の限定的な生活条件が、流人を島の相互扶助的な生活のネットワークへ組み込み、かつ、気心知り合えた彼ら・彼女ら(ごくわずかに女性流人もいました)を、島の共同体の一員として懇ろに付き合い、なるべく長期にわたって生き延びさせようとする気風があったのではないか、と推測されています。

予見できない到来者たちを活かし、彼らを組み込んで組織される、島の共同体。

島の生活環境には、ある意味逃げ場がありません。そこに留まるのか、動くのかという選択は、平地のまちの中を転々としていくこととは訳が違います。島は、物理的に人が住めない領域(海)によって、周辺の大地から区切られているからです。

土地や水、産物や社会が、直感的に見渡せて把握できる規模の大地=島において、持続的な生活をどのようにつくり、運営してゆくのか。ある時期の地球活動によってできた、「離島」という大地条件の解釈としてそこへ重ね刷りされてきた日本史が、現代の共同体や暮らしの形にさえ何らか射し込んでいるかもしれないさまを、この太古の火山島・隠岐の海士町で、かいま見たように思いました。



まつだ・のりこ
1978年生まれ。建築史、都市史、領域史。京都府立大学生命環境学部環境デザイン学科准教授。著書=『絵はがきの別府』(左右社、2012)、共編著=『危機と都市──Along the Water: Urban natural crises between Italy and Japan』(左右社、2017)など。共著=『変容する都市のゆくえ──複眼の都市論』(文遊社、2020)、『フリースラント──オランダ低地地方の建築・都市・領域』(中央公論美術出版、2020)など。

協賛/SUPPORT サントリー文化財団(2020年度)、一般財団法人窓研究所 WINDOW RESEARCH INSTITUTE(2019〜2021年度)、公益財団法人ユニオン造形財団(2022年度〜)