生環境構築史

第1号  特集:SF生環境構築史大全 A Sci-Fi Guide to Habitat Building History 科幻生環境構築史大全

生環境構築史とSF史:座談

巽孝之+生環境構築史編集同人【慶応義塾大学/編集同人】

Habitat Building History and History of Sci-fi: DiscussionTakayuki Tatsumi + HBH Editors【Keio University/ HBH Editors】

生环境构筑史与科幻作品史・座谈

In the first half of the 19th century, the British writer Mary Shelleys full-length novel Frankenstein (1818) was a pioneer in the history of science fiction, and its spirit was carried on by the American writer Edgar Allan Poe, the French writer Jules Verne, and the British writer H. G. Wells. In the first half of the 20th century, Hugo Gernsback, an American engineer of Luxembourg descent, founded the worlds first science fiction magazine, Amazing Stories, which marked the origin of the genre. As a result, the Hugo Award, the annual science fiction award in honor of the father of science fiction, has been held since 1953 as the best quality assurance label for modern science fiction. Of course, if Gernsback was the father, then Shelley, Poe, Verne and Wells were the grandparents of science fiction. How can the subsequent history of science fiction be told?

話者:
巽孝之(アメリカ文学|慶應義塾大学)
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司会:
中谷礼仁(建築史・歴史工学|早稲田大学)
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参加者:
小阪淳(美術家)
日埜直彦(建築家|日埜建築設計事務所)
藤原辰史(農業史・環境史|京都大学人文科学研究所)
徐子(早稲田大学大学院博士課程)
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テキスト作成:
贄川雪(編集者)



エイリアン像と宇宙観の変遷

中谷──前編では巽先生に基調講演をしていただきました。ここから座談会に移ります。参加者全員で議論を展開しながら、構築4の姿とはどのようなものか、イメージを広げていきたいと思います。

小阪──巽先生の講演から、SFにおけるエイリアン像の変遷と、実際の世界の動きがどのように連動していたのかを垣間見ることができました。例を挙げれば、エイリアンは一概に侵略者として描かれているわけではなく、『2001年宇宙の旅』(映画・小説1968)では「星々という畑の農夫」という知的な存在として描かれています。私たちが漫然と抱いている、外部に対する敵視と願望の結実としてエイリアンが存在し、そのエイリアン像の変化には、折々の人間の哲学的・倫理的なものが大きく影響しているように感じました。

巽──H・G・ウェルズの『宇宙戦争』が書かれたのは1898年ですが、それはまさに米西戦争の時代でした。米西戦争とは、実質的にアメリカの帝国化宣言であり、当時スペイン帝国が持っていた植民地を帝国から保護し解放してやるという建前のもと、実際はスペインから奪い取ったのです。かくして20世紀は帝国主義ゲームの時代として始まる。こうした背景があったので、当時のエイリアンの描き方には、ジャポニズムやイエローペリル(黄禍論的言説)の影響ももちろんあったと思いますが、結果的には侵略のイメージが非常に大きく影響したのだと思います。ウェルズ以降の火星人や宇宙人一般が軟体動物のなかでもタコやイカなどシーフード系のデザインが多いのも、当時はマーク・トウェインも書いているように、蝶がアメリカ帝国で、蜂や軟体動物がそれに対立するロシアや極東諸国というメタファーが既に成立していたからなんですね。

しかし、最近の中国SFの傑作であり世界的なベストセラーとなった劉慈欣の『三体 II 黒暗森林』(2008)には、逆にウェルズの時代の世界観に戻ってしまった印象があります。トランプと習近平の時代に読まれるのは、アイザック・アシモフのような帝国主義的なSF作品なのかもしれません。

小阪──加えて、SFの可能性を大いに再認識しました。SF=サイエンス・フィクションですから、まさしく科学から宇宙や世界の仕組みを外挿し、可能性を示唆するのがSFの役割のひとつだと思います。私はこれまで宇宙物理学に関心を持っていたのですが、徐々に科学自体よりも科学をする人間に関心が移行し、最近では科学哲学に関心があります。というのも、科学する行為と、科学を伝える行為の間には、どうしても相互に補完できていないものがあるように感じるのです。それを哲学と呼ぶことが適切なのかはわかりませんが、その欠如に対し、何か虚しさみたいなものを覚えることがありました。しかし、SFが持つ自由な発想にはそれを補える可能性があり、それが「センス・オブ・ワンダー」を生んでいるように思います。

巽──SFにおいて宇宙論を外挿した例としては、1990年に、サイバーパンク作家のルーディ・ラッカーが発表した『空洞地球』という小説が大好きなんです。この作品は、エドガー・アラン・ポー唯一の長編小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1838)と彼の宇宙論『ユリイカ』(1848)へのオマージュですが、そこにはポー自身が当時愛読したであろうキャプテン・アダム・シーボーンの空洞地球小説『シムゾニア』(1820)の要素とともに、現代を代表する宇宙物理学者のキップ・ソーンらが検証したワームホール理論も取り入れられている。つまり、「空洞地球」のなかにワームホールのある宇宙が再現されるという、宇宙論と空洞宇宙論を融合した点がなんともユニークなんですね。

当時はキップ・ソーンだけではなく、スティーヴン・ホーキングの著書もベストセラーになっていました。カール・セーガンの『コンタクト』(小説1986、映画1997)も、何度となくワームホールを抜けてたどり着いた宇宙の彼方で亡くなった父親に変装したエイリアンと対話する物語でしたね。こうした事例に見られるように、SFにおける宇宙観がこれだけ大きく変遷してきたのは、過去のSF作品のみにとどまらず、実際の最先端の科学から存分に影響を受けつつ、かつ各時代の倫理観に応じながら自由に展開したためではないでしょうか。

視覚化と内宇宙の表現

日埜──SF史を概観する際の切り口として、「外宇宙(outer space)、内宇宙(inner space)、電脳空間(cyberspace)」というキーワードを最初に提示されました。それぞれの時代の世界観としては、外宇宙がモダン、内宇宙はポストモダン、電脳空間はポストヒューマンと対応していると思います。人間の能力が拡張していくモダンという時代、それがある種の問題を引き起こしたのだと捉えるポストモダン的な状況把握、そしてその果てに、関心が未来の人間のかたちへシフトするポストヒューマンの時代——この三段階がパラレルにつながっていると見事に整理されていました。

ここで特に興味深いのは、関心が外宇宙から内宇宙に移っている点だと思います。つまり、単に外在的なものに向けられていた世界の見方が、私たち自身のなかに展開され、それによって外宇宙での世界観を超えるものや、さらに不可知なものが発見された。それは単純に対象が遷移したと捉えることもできるかもしれませんが、他にも理由があったのではないかと思われるのです。つまり、SF映画があまりにも世界を視覚化してしまったために、自然とSF小説は視覚化できない内的世界を掘り下げ、模索する流れに向かったのではないか、と感じたのです。

巽──そうした流れに向かう大きな転機となったのは、やはりJ・G・バラードらが掲げた反アメリカニズムでしょう。当時、ジョン・F・ケネディ大統領が打ち立てたニュー・フロンティア計画によって、米ソの宇宙開発競争は激化しました。バラードには『ハロー、アメリカ』(1981)というアメリカ帝国へのレクイエムとも言える長編小説があるぐらいで、そこでは22世紀の近未来に生態系が破壊され居住不能になってしまったアメリカを捨てて、国民が皆ヨーロッパやアジアへ散り散りばらばらになったあと、ヨーロッパから以前ならいかにもミシシッピ川をたゆたっているような蒸気船がやってきてアメリカを再発見するんです。しかもこの蒸気船は名前が、史上初の月面軟着陸を実現した宇宙船にあやかって「SSアポロ号」という。バラードの内宇宙の旅では内宇宙船や内宇宙服が必須ですから、そうしたベクトルの大本を辿れば、宇宙開発に代表されるアメリカの夢に惹かれるところはあったんだと思いますよ。

ところが、そんな憧れのアメリカのSF雑誌に小説を何度投稿しても、その作品がボツになったという過去がある。そのためアメリカSFに対する反発があり、アメリカ的な外宇宙への展開を徹底批判するようになる。その結果、精神分析理論やダダ=シュールレアリスム詩学などを駆使した、内宇宙を追求するSF作品を執筆していくのです。

他にも例を挙げましょう。バラードは、表現としては「破滅四部作」に見られるように、地水火風の様々な理由で地球が崩壊してしまうというイメージを描いています。しかしそのなかでも、「深い時間(ディープ・タイム)」という概念を導入していることは、注目すべき点です。ウェルズに『タイムマシン』(1895)という作品がありますね。時間旅行のための乗り物であるタイムマシンを導入した最初期のSF作品であり、この一作で「タイムトラベルSF」というサブジャンルも成立させてしまったという、画期的な小説です。このタイムトラベルは、物理的に過去・未来に行くという世界観です。しかし、これに対してバラードが考えた「ディープ・タイム」への旅とは、人間の内面への旅なのです。パレオントロジー(Paleontology:古生物学)に対して、パレサイコロジー(Paleopsychology)、言うなれば古心理学とでも言えるでしょうか。恐竜などの古生物を研究するように、人間の心理自体にも古代があり、その深層におけるディープ・タイムを探求しなければならないというのが、バラードのヴィジョンだったのです。タイムトラベルは非常に多くの作品が映像化されていますが、これは映像にはなりにくいのではないでしょうか。

さらに加えて、内宇宙を考えていけば、当然「性差宇宙(ジェンダースペース)」という問題にも対峙することになるでしょう。この流れのなかで女性作家も進出し、かつ同性愛者の作家も登場しました。アメリカにおけるニューウェーヴSFを代表するトマス・ディッシュは白人のゲイの作家、サミュエル・ディレイニーは黒人のゲイの作家です。

また、昨今叫ばれている「ブラック・ライヴズ・マター」(BLM)の起源も、やはり1960年代のニューウェーヴ運動にありました。先のディレイニーや、アフリカ系アメリカ人かつ女性作家のオクティヴィア・バトラーは、こうした内宇宙の洗礼を受けたうえで、黒人なりの思弁小説(スペキュラティブ・フィクション)を書いています。ちなみに、天文学的現象において観測不可能な見えない物質のことを「ダークマター」と言いますが、黒人のスペキュラティブ・フィクションを集めたアンソロジーにも『ダークマター』というタイトルが付されたものがあります(Dark Matter: A Century of Speculative Fiction from the African Diaspora, Warner Aspect, 2000)。

まとめるならば、内宇宙指向とは、ただ自分の心の内面や無意識の奥底に降りていくというだけではなく、いわゆる白人・男性・異性愛者によって築かれたSFという世界を全部転覆してみようという試みと捉えられるのです。このような意味で、60年代のバラードらによる革命は、今もまだ大きな影響力を有しています。サイバーパンク作家のギブスンやブルース・スターリングもバラードが大好きだと公言していますから。内宇宙を考えるというのは、こうした深い問題をも包摂することなのです。

SFにおける無意識と抑圧

藤原──私は、バラードが「無意識」という言葉を使ったことも、大変重要だと思いました。やはりフロイトを引用していたのですね。フロイトの著作に「不気味なもの」(Das Unheimliche)というエッセイがあります。「不気味なもの」とは、今までまったく見たことがないものに対して感じるのではない。むしろ、かつて見たことがあるのに、抑圧したり、目を背けたりしていた「ダークマター」が突然湧いてくるから、不気味に感じるのですよね。面白いことに、単語を見ても、「unheimlich」の「heim」は、かつて馴染んだ故郷や家という意味であり、それに「un」という否定の接頭語がくっついています。巽先生のまとめられたSF史のなかに、私はこうした無意識の歴史を垣間見たように思いました。自然や女性とは、まさに私たちが近代社会を作っていくうえで抑圧してきたものですね。

また、農業史を研究している私にとって、非常に興味深く感じられたのは、「土っぽいもの」とSFの関係です。これは私たちの「生環境構築史」というプロジェクトにおいても重要なキーワードのひとつでもあります。なぜ、SFにおいても、人類は田舎や農業といった土っぽいものに戻ってくるのでしょうか。

以前、『トラクターの世界史——人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中公新書、2017)という本を書いた際、ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』(1939)引用しました。当時のトラクターは、今でいうコンピュータのような最先端技術でした。しかし、いくらその最先端の道具を駆使して農地を耕しても、ダストボウルと金融恐慌は乗り越えられない。そうした現実的/SF的な状況が、『怒りの葡萄』のなかには描かれています。そして、それが『インターステラー』(2014)で再登場する。今まで私は、SFとは新しいものを開拓していくものだというイメージを抱いていましたが、巽先生のお話を聞いて、不気味なものを扱う、つまり、馴染んだものがもう一度現れることによって展開される世界観があるのだ、と発見できたと思います。農夫が耕しているのは土であり、作物を掘り返しているのですが、なんだかそれが、無意識をも掘り返しているように感じられました。

巽──それはフロイト的な「抑圧されたものの回帰」がロシア・フォルマリスムでいう「異化作用」「非親和化」に通ずる道筋かもしれません。その傍証になるかどうか、SF史のなかでは「事実はSFより奇なり」ともいうべき事件がありました。ジェイムズ・ティプトリー・Jr.という作家が、1968年のデビュー以来、実は長らく女性であることを隠して執筆活動をして大人気を博していたんですね。彼女は1915年生まれで、ジョン・F・ケネディらと同年代です。つまり、まだまだ男が強い社会に生きていました。そのなかで、彼女は長年CIAに勤めていたのです。その経験を活かしてSF作家としてデビューしたわけですが、マッチョ極まりない男性優位の社会を知り抜いていたからこそ、あえて活躍しやすいように自身のペンネームを男性名にすることを選んだのです。アメリカ社会を熟知している、彼女らしい判断です。かくして彼女は、へミングウェイのような文体を採用し、ハードボイルドで、ミソジニーさえ含んだ男っぽい表現で作品を執筆したのです。こうして、彼女は昨今珍しいほどにマッチョで優れたSF作家として受け入れられ、ヒューゴー賞やネビュラ賞など、SF界を代表する名だたる賞を総なめにしていきます。

1970年代はフェミニズムSFの時代で、アーシュラ・K・ル=グィンや、ヴォンダ・マッキンタイアなどの女性作家が活躍していました。そんな状況下で、男性作家のロバート・シルヴァーバーグに「今元気が良い男性作家は、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.くらいだ」と発言させるほどに、ティプトリーは完璧な男性作家を演じていました。

その後、彼女のファンが正体を突き止めてしまい、彼女が女性であることは公になりました。そのため、本名のアリス・シェルドン名義も使って作品を発表していくことになりますが、やはり正体が暴露された後は、作風に少し変化が出ていますね。

こうした事実から思い至るのは、私たちが無意識に沈殿させてきたのは、まさにこういうことではないか、ということです。つまり、私たちにとってのノーマルでは男が中心であり、女性作家も黒人作家もマイナーな存在であるべきものとされ、アジア人作家なんて存在すら知らないという世界だった。しかしそこに、完璧な男性をシミュレートしたSF作家が出てきたのです。これは、女性作家自らが、男性作家の世界をそれこそSF的に再構築した成果と言えるのではないでしょうか。私たちが当たり前と思っていること——例えば人種や性差、階級の差異が醸し出すスペクトラムは、実は白人男性異性愛社会というノーマルの水面下に巧妙に封じ込められているからこそ、かろうじて現実社会が成立しているのです。そのような意味で、私はバラードが精神分析を導入し反アメリカ的な価値観を体現したことは、SF史においても現実世界においても、たいへん重要なことだったと認識しています。

構築3とテラフォーミング

中谷──私は今日、パーシヴァル・ローエルの話を初めて知り、たいへん驚きました。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に影響を与えたほどの日本研究者が火星研究者になり、火星運河説を唱えた、というのは、非常に興味深く感じます。

外宇宙の時代は、冷戦構造と同じく、地球外に宇宙人が存在するだろうという前提のもと、物語が展開していました。しかし、火星に宇宙人がいないことがわかったことはとても大きかったのではないでしょうか。そのために、宇宙人の存在を前提に展開していた対立的な宇宙構造はなくなり、むしろ無制限なテラフォーミングへと展開したのではないか、と巽先生の話を聞いて思えたからです。

ここから考えたいのが、構築3の世界像の欲望と、構築4の世界像の欲望はどのように異なるのか、ということです。宇宙人がいないという前提で展開されるテラフォーミングは、構築3的「無尽」の世界と非常に大きく関係しているように思うのです。

巽──それは大いに関係していると思います。私たちはエイリアンを「火星人」と呼称することがありますが、少なくとも火星人は存在しないことがわかってしまった。私たち地球人は孤独ではない、と思いたいけれど、しかし現実問題、異星の知的生命体と出会うことはまだまだ難しそうです。

そこで示唆的なのは、先ほども名前が出てきた『三体』の第二部「黒暗森林」です。ここではフェルミの定理が援用されます。つまり、私たちが高度な知的生命体に宇宙で出会うことができるならば、相手は高度な知性体なのだから、むしろとっくに地球を見つけているはずである。それらがまだ地球にやって来ていないということは、つまり高度な知性体は宇宙に存在していないということではないか、と逆説的に説明するのです。

また、これは作者である劉慈欣自身の考え方が表れているのかもしれませんが、物語では、エイリアンに出会った際の一番正しい態度とは、出会ってすぐに相手を殲滅することであり、さもなければ悪影響を受けるに決まっている、とも書かれています。逆に考えれば、もし、エイリアンもそれをわきまえているのであれば、姿を隠している可能性もある、と。このように、火星には生命体はいないことが証明されてしまったため、それをこれまでとは異なる視点から説明しようとするSFが現れてきているというのも、面白いことではないでしょうか。

一方、火星人なんていないのであればテラフォーミングしてしまえ、という考え方が出てくるのも至極自然なことです。実際に、テラフォーミング小説が様々に描かれるようになりました。おそらく、クラークや小松左京が援用した「木星太陽化計画」の発想も、同系統のものだと捉えられます。つまり、宇宙の彼方から誰もやって来ないのなら、逆に人類の方から宇宙へ作用していこうというパターンです。

こうした流れを見れば、宇宙人が存在しないならテラフォーミングへ、という思考の変化があった、と言えるかもしれません。昨今話題になった「人新世」のような発想も、同様の思考から登場したのかもしれませんね。

中谷──『三体』が面白かった点を加えるなら、昔懐かしき冷戦構造を復活させてむしろ倫理的行動をよみがえらせた点ですよね。それが、非常にうまく今の米中関係と対応しているように思います。

巽──中谷さんのご指摘は、ノスタルジアの問題ですね。実は『コンタクト』(1997)という映画を見たとき、私は、またこのパターンか、と感じたのです。エイリアンが人間とコンタクトをするために人間の環境を複製してアプローチしてくる。おそらくノスタルジアに訴えかければ、人間も安心してコミュニケーションを図るだろう、という魂胆なのでしょう。しかしそれはやや人間にとって都合の良いエイリアン像だとも思われます。

まだまだはっきりと表面化しているわけではありませんが、冷戦構造の後に、湾岸戦争や9・11同時多発テロなどによって世界情勢は混迷を極め、その果てに、現在の米中関係になだれ込んでいます。実は最近、私の周囲でも冷戦研究がさかんに行われています。その時代を研究しなおすことで、2020年についても深く理解できるのではないか、という期待が高まっていることの表れでしょう。同様の期待から、SF作品もこの時代に回帰していっているのかもしれません。

日埜──しかし、冷戦構造が解体し、さらにポストヒューマン的テーマが登場してきた。しかもそこでは農夫や農業といったイメージが用いられていますよね。藤原さんも指摘されましたが、なぜ、こうしたイメージが採用されるのでしょうか。

巽──冷戦構造的な作品群とは反対に、『インターステラー』が面白いと感じられたのは、そのエイリアン像に理由があります。それは私たちがエイリアンだと思っていたものが、実は未来人かもしれないという新しい設定だったからでした。宇宙空間上にエイリアンが存在しなくとも、時間と空間を克服した未来人となら会い見えるかもしれませんから。

一方、農夫の問題について言うなら、先ほど藤原さんも挙げたスタインベックの『怒りの葡萄』は1939年の作品ですが、彼がノーベル文学賞を受賞したのは1962年で、冷戦の渦中に受賞していることになります。しかもスタインベックはケネディの支持者でもあった。つまり、米ソ冷戦時代の宇宙開発競争のような、言い換えればフロンティアを耕すという精神が存分に流れていた時代に、SFが農夫に回帰して、それから半世紀以上を経た21世紀の今日では、テラフォーミングを農業の要領で語るようになっているというのは興味深い。

しかし一方、クラークは、宇宙の知的生命体の可能性があるものを、殲滅すべき外敵ではなく「種子」と捉えたわけです。人間さえも一種の種子と考え、花を咲かせ作物にしよう、というのがクラークの発想だったのですね。だから「宇宙の農夫」というのは、その意味では非常に深みのある表現でもあります。

つまりまとめると、農夫や農業のイメージは、文脈によっては植民地主義や帝国主義につながる可能性はあるものの、少なくともクラークが打ち出したヴィジョンにおいては、異種族を殲滅するという内容ではない。育てて展開し、花を咲かせるべき存在と見出すような視点もあったのだ、と指摘できるのではないでしょうか。

日埜──SFにおける外宇宙の発想が、帝国主義の時代と対応しているとして、内宇宙の話が、例えばベトナム戦争の行き詰まり、つまりある種の拡張主義の挫折のようなものと世相的に対応しているということですね。あるいは、どこかでローマクラブの『成長の限界』も関係するのかもしれません。

そのようななかで、冷戦構造の解体があり、小さな戦争はあれども大きな戦争は起こらないという期間が15年ほどあった。そのときに、こうしたある種の融和のイメージや農夫のイメージが提示されたのは、人間のイメージを、極めて暴力的な獣ではないものにしたいという欲の表れにも思います。

しかし、私は直感的に、人間はそれほど賢いものではなく、もっとワイルドな部分があるようにも思うのです。そのような意味において、『三体』をどのように読み込むか。昔のSFへの対抗のかたちの一種と見ていいのか、あるいは人間の恐ろしさをもっと積極的に見ようとしている作品であると捉えるべきかが、気になっています。

巽──劉慈欣本人が、『三体』はアイザック・アシモフの『ファウンデーション』だと公言していますね。『三体』では、極小のスーパーコンピュータ「智子(ソフォン)」という新しいテクノロジーが登場するなど、最新の知識が導入されている部分もあります。しかしながら、ヴィジョンとしては、やはり対侵略者のパターンなので、ウェルズの直系だと私は捉えています。

農夫的なイメージは、宇宙全体を畑として見るヴィジョンであり、確かにそれは若干の小康状態を想起させます。それは、おそらくクラークが考えた冷戦打開のヴィジョンだったのではないでしょうか。

それ以上に私が強調したいのは、むしろ比較的最近である2014年の映画『インターステラー』においてそれが反復されていることなのです。クリストファー・ノーランは、スタインベックはもちろんのこと、クラークやボルヘス、ギブスンも読み込んでおり、たいへんな読書家なのだと感心しました。そこから、60年代にクラークが考えた冷戦融和のヴィジョンを再評価しつつ、地球温暖化以降の21世紀的視点で作品を制作したことは、非常に興味深いと思います。

日埜──冒頭に中谷さんもおっしゃいましたが、私たちの企画会議のなかでしきりに話題となったのは、地球回帰としてまとまりがちな構築4のイメージを、いかに深みと広がりのあるものにできるか、ということでした。ある種現代的なイメージが、地球から飛び出していくような衝動だとしたら、それに対して構築4はどのようにイメージされるのかを素描したい。それが例えば、複製された懐かしの家ということだと、多分地球回帰にかなり近いイメージになってしまいそうです。

巽──おそらく、別の目的のための戦略として、そのノスタルジアが利用されているということでしょうね。

中谷──巽先生による『インターステラー』解説は、宇宙人が未来の地球人ではないかという重層的な宇宙像です。これは言い換えれば、テラ(地球)をテラフォーミング(再地球化)するという、私にとっては今まで考えもしなかった新しいイメージに導いてくれたような気がします。つまり、地球はひとつではない。そこには時間が流れるから。そして、最後にご紹介いただいた郝景芳の『折りたたみ北京』(2016)がそこにつながるというプロットは非常に興味深い。つまり、郝景芳はすでにその時間制の導入を実地にやっているのではないかと思いました。外宇宙からテラフォーミングへ、そして再・地球へと戻ってくるというこの感覚は、まさに構築4を想起させるのではないでしょうか。

巽──そう、確かにあの小説は「地球そのものをテラフォーミングしている」感じなんですね。こんな手があったのか、と私もしきりに感心しました。これをきちんとビジュアル化できる映像作家がいれば良いのですが。

中谷──さらに話を伸ばすと、構築3と構築4を空間として対比することは有効だと思いました。構築3の空間はゴミ屋敷に似ています。構築3は宇宙に全体性、宇宙の果てを見ません。逆に空間がいつまでも無限であるかのように想定し、結果的にその空間にゴミを撒き散らかしてしまう。一方、構築4は『インターステラー』における主人公の後半の行動のように、宇宙全体を自分の部屋=マイスペースとして強烈に認知しようとしている、つまり構築4は、宇宙を自らも属する空間の全体として再認識しようとする営為なのではないかと思ったわけです。

巽──『インターステラー』の場合は、地球そのものはすでにゴミ屋敷になってしまったところから始まります。それで他にユートピアをいくつか探し、テラフォーミング可能な惑星を三つほど見つける。最初の惑星はテラフォーミングが難しく、次の場所では、先行して到着していた宇宙飛行士の裏切りに遭ってしまう。そして三番目に可能性のある惑星が見つかり、主人公は地球に還ろうとするのですが、宇宙に放り出されてしまう。しかしその後「クーパー・ステーション」という土星衛星の軌道上にあるスペースコロニーで命を拾われる。しかし、そこで主人公が目を覚まして見たものは、地球での自分の生活の複製で、それを作ったのは未来の地球人だった。

ゴミ屋敷を捨てていく、と言うとあまりいい感覚ではないかもしれませんが、しかし先ほども話題に上がったように、懐かしの我が家のようなものが、未来の地球人によって、地球ではないところで複製されていくというのは、構築4に近いイメージの一種かもしれませんね。

小阪──『インターステラー』の最後の風景と『惑星ソラリス』(1972)の最後のシーンは、やや似たような内容でありながら、映像のイメージは大きく異なります。『惑星ソラリス』では、主人公が故郷に戻れたのかと思いきや、画面が引いていくと、故郷が海のなかにポツンとあり、それがソラリスに複製された故郷だったとわかるという、ある種恐怖さえ感じさせる映像になっています。このように、『惑星ソラリス』の場合は答えをはっきりさせないし、どこかネガティブな雰囲気さえ漂わせますが、しかし『インターステラー』はわりとポジティブな感じを受けました。こうしたところにも、SFの問いかける世界観の違いが出ていて面白いと思いました。

巽──タルコフスキーの『惑星ソラリス』の方が、映像としても物語としても入りやすいとは思います。しかし、原作者であるスタニスワフ・レムは、「ソラリスの海」というエイリアンは絶対の他者でなければならないと考えていましたから、あの映画には批判的ですね。

SFにおけるノスタルジア

徐子──SFは一般的には未来や最先端を書くものと思われますが、『インターステラー』で主人公が最後にたどり着いた空間は、懐かしい家でした。また『コンタクト』の宇宙船が最後にたどり着いたのは、ヒロインが幼い頃に描いた絵でした。いずれも地球から始まって、宇宙に行くのに、また人類の家に戻ってくる。

また、『折りたたみ北京』のために描かれた絵は、ハイウェイが開通し、一方には超高層住宅、もう一方には今にも区画整理されそうな古くて小さな住宅があるという、まさに私が知っている現在の北京の風景そのものでした。

SFは、果たして未来を書いているのでしょうか、それとも人類の現在を書いているのでしょうか。どのように捉えるのが良いのか、ご意見をうかがいたいです。

巽──サミュエル・ディレイニーは以前より「SFは現在を描く」と主張しており、その傾向は1980年代のサイバーパンク作家たちの作品においてますます濃厚になっています。にもかかわらず、とりわけハードコアSFにおいて、一体なぜノスタルジックな風景が度々登場するのか、という問いについては、この座談会のなかでもいくつかの可能性を示しましたが、大きくまとめると次の二つでしょう。

ひとつは、地球人が自分たちとコンタクトがしやすい生環境を、エイリアンが作り出した。そしてそれが、人間にとって馴染みやすいノスタルジックなものだった、という解釈です。まさにご都合主義ですけれども、この時、ノスタルジアは「懐かしさ」転じて「住みやすさ」の感覚とともに、最終的にはテラフォーミング指向を正当化するのではないか。もうひとつは、こうしたノスタルジアの表現は、人間を内宇宙、つまり人間の無意識へと誘うため、過去のイメージを喚起しやすい表現方法として懐かしの家が採用されている、という解釈です。

つまり、ノスタルジアは過去を描くために登場しているのではなく、いずれの場合においてもコミュニケーションのひとつの表現手段として使われているのではないでしょうか。確かに60年代は、マーシャル・マクルーハンの「グローバル・ヴィレッジ」というヴィジョンが広く喧伝され、なか谷さんがご著書『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(インスクリプト、2019)で書かれているようなコミューンの思想、つまり全地球的に私たちはつながっているというヴィジョンが共有された時代だったと思います。そのようなとき、誰もがノスタルジアを感じる可能性があるものが、内宇宙や無意識の記号として扱われた可能性は高いと思います。

一方、確かに『折りたたみ北京』のイメージに接して、あれはSFではなく現実の北京そのものじゃないか、という所感を抱く可能性は否定できません。しかし、例えばマジック・リアリズムという文学ジャンルがありますね。少数派民族の世界であれば、近代文明の視点からすると非日常的な現象こそが日常的なのだという前提から織り紡がれた表現手法で、代表例としてはコロンビアのノーベル文学賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(1967)が挙げられます。ガルシア=マルケスが描いたラテンアメリカにおけるマコンド村のリアリティは、ラテンアメリカ以外の人間にはマジカルに見えてしまう。もしかすると、『折りたたみ北京』においても、同じようなことが言えるのかもしれません。北京を知る徐子さんには現在的・現実的に見えても、私たちには非現実に見えるというマジック・リアリズムを、郝景芳はやっているのかもしれません。

『折りたたみ北京』で私が興味深く思ったのは、そのメカニズムでした。人口過密を解決するために、未来の北京は折りたたみ式に改造され、第一スペースは富裕層と権力層、第二スペースは中産層、第三スペースは貧困層が住む場所とされています。そしてこの三つのスペースは、出現できる時間帯が区切られており、時間が来ると、次の出現スペースが180度回転して現れて交替する。現代的なタイムシェアリングと言えば簡単ですが、にもかかわらずこれは、一種の70年代以降のオニール型スペースコロニーの発想を経なければ出てこないようなイメージだったのではないか。外宇宙SFの遺産とも言えるテクノロジーが、こうして地球上で展開され、まさに人新世独自の生環境SFの可能性を示しているところが面白かった。

終わりに

日埜──本日のお話は、非常に端的に言えば、宇宙と地球とモノリスの話だったと思います。モノリスはいわばコミュニケーションを拒むようなところがあったわけですが、それに対して懐かしの家が人間のために用意された。モノリスとしてのSF、つまり人間のイメージを喚起してくれるようなものとしてのSF、という視点が得られたことが非常に面白かったです。

藤原──多くのキーワードが登場しましたが、小阪さんが指摘された複製という言葉も、非常に心に響きました。例えば、ヴィジョンとして懐かしい家や風景が複製されたり、『ねじまき少女』(2009)では、生命が情報として複製されたりしている。いろいろな意味において、ヴァルター・ベンヤミンがかつて書いたものを、私たちは21世紀的に書き換えていかなければなりません。新しい、複製時代技術のヴィジョンを描かなければ、という気がしました。

また、先述のとおり、このプロジェクトにおいて重要なテーマのひとつが土壌です。現在、農業自体もポストヒューマン的になっていて、人間が耕す必要はなくなってきています。微生物を複製して増殖し、土を耕させるような方向に向かっているのです。このような事態を捉えるときも、SFの想像力や、今日登場したキーワードがヒントになるように思います。

小阪──宇宙を畑に見立てるヴィジョンから感じられるのは、そのなかのどこかで花が咲いているのをそっと眺めているような風景でした。その風景が本来、究極の価値であり、私たちがこのプロジェクトで到達すべきものであるようにも思います。こうした究極の景色を描く可能性を有しているのが、SF文学の力なのだと痛感しました。

中谷──本日のお話を聞いて、「生環境構築史」の図をどのようにバージョンアップするべきか、イメージが浮かび上がった気がします。巽先生の『インターステラー』の解釈がヒントになりました。つまり、構築0から地球に戻ってきたら、地球が動いてしまっていて、戻ろうとした地球はすでに存在していないという状態が近いように思ったのです。これは絵にするのは非常に難しいのですが、時間という視座を導入することで、構築4はよりサイバネティクスな像として描けそうな予感がしています。

それでは、最後に巽先生からもご感想をいただきたく思います。

巽──本日のテーマ「生環境構築史」は私にとって斬新なものでした。それがうまくSF史と重ねられたのかどうか、不安な部分もあります。しかし、空間だけではなく時間も、SF史のなかでは非常に重要なファクターであり、私たちがエイリアンと認識していたものは、実は未来人かもしれない。このように、新しい発想のSFが私たちに気づかせてくれるものが、たくさんあります。今日ご紹介したSF作品やその変遷のなかで練られてきたアイディアが、生環境構築史においてもヒントになればと思います。

それから、本日の話からは少し離れて蛇足になるかもしれませんが、私が好きな映画監督ニール・ブロムカンプの傑作SF映画『第9地区』(2009)に言及して締め括らせてください。

というのは、『第9地区』に登場するエイリアンは、今日の話に登場したエイリアン像とは大きく異なります。もちろん未来人ですらない。そのエイリアンはウェルズ以来のお約束でシーフード系なのですが、やや頼りないというか、情けない。地球にやって来たものの、UFOが故障してしまったために難民となっているエイリアンなのです。それで、南アフリカのヨハネスブルクに「第9地区」という隔離地域をあてがわれ、UFOの修繕が終わって帰れるようになるまで待機していなくちゃならない。エイリアンが人類の知性を向上させるどころか、人類の方がエイリアンの世話をするという物語なのです。

したがって、ブラック・ユーモアが非常に効いています。例えば、ヨハネスブルグの黒人たちが、「人間ならまだしも、エイリアンだぜ?」といったセリフを発する。差別を受けていた黒人が、今度はエイリアンを差別しているわけです。しかも、この映画は、見せ方も秀逸です。現実の写真も用いながら、実は南アフリカのアパルトヘイト反対運動は、このエイリアン騒動を隠蔽するために偽装したフェイクニュースだったのだ、と、まるでドキュメンタリー番組のような構成をとるのです。

しかしここからとても示唆的な観点も見いだすことができるでしょう。ひとつは、エイリアンが本当に地球にやって来たとき、私たちとエイリアンは、生環境として共生できるかどうかという問題。もうひとつは、高度な知的生命体として描かれがちなエイリアンが、実は人類よりも劣っている場合があり得るという問題です。この場合、それこそまさに『第9地区』で描かれているように、差別の問題を克服することで、私たちとエイリアンは共生できるのでしょうか。

ラストシーンは、エイリアンが隠した秘密の液体に触れたため遺伝子に支障をきたし、自らエイリアンになってしまった人間の主人公が、最愛の妻のために造花を作りこっそりプレゼントするのだけれど、しかし、その妻は、彼の姿がエイリアンになってしまったことを知らない、という非常に切なく、しかしながらSFでしかありえないものです。私たちはこれまでなんとなく、エイリアンを遠くの世界の超人的存在、あるいは人類であってもはるか未来の超越的存在と見てきましたが、ひょっとするとエイリアンはすぐ隣にいて、われわれ人類と既に生環境を共有しているのかもしれません。

今日の座談会は、私にとってもたいへん勉強になりました。生環境構築史を通して、エイリアンとの共生環境は可能か、という問題まで考えることになるとは予想もせず、大いに刺激を受けた次第です。



[2020年8月28日、Zoomにて収録]
生環境構築史とSF史:基調講演
Habitat Building History and History of Sci-fi: Keynote Speech
/生環境構築史与科幻小说:主旨演讲
巽孝之/Takayuki Tatsumi
生環境構築史とSF史:座談
Habitat Building History and History of Sci-fi: Discussion
/生环境构筑史与科幻作品史・座谈
巽孝之+生環境構築史編集同人/Takayuki Tatsumi + HBH Editors
地球の住まい方──ジュール・ヴェルヌ〈驚異の旅〉における「ロビンソンもの」の展開
Verne’s Never-ending Voyages
/地球的居住方法——儒勒・凡尔纳《奇异旅行》系列中的“荒岛文学”情节
石橋正孝/Masataka Ishibashi
中国SF小説においての現実と非現実──「科幻現実主義」と劉慈欣の作品から語る
Reality and Non-Reality in Chinese Science Fiction
/中国科幻小说中的现实和非现实: 从科幻现实主义作品和刘慈欣作品出发
徐子/Zi Xu
退屈な都市と退屈なSF、過去に語られた未来から逃れるために
The future is going to be boring
/无聊的城市、无聊的科幻,为了逃离过去所描绘的未来
樋口恭介/Kyosuke Higuchi
エイリアンのアヴァンガーデニング
Alien Potatoes
/外星先锋园艺
永田希/Nozomi Nagata
がれきから未来を編む──災間に読むSF
A Science Fiction Survival Guide to Doom and Destruction
/从瓦砾中编织未来──在灾难的间隔之间阅读科幻小说
土方正志/Masashi Hijikata

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