生環境構築史

第1号  特集:SF生環境構築史大全 A Sci-Fi Guide to Habitat Building History 科幻生環境構築史大全

がれきから未来を編む──災間に読むSF

土方正志【「古本あらえみし」店主】

A Science Fiction Survival Guide to Doom and DestructionMasashi Hijikata【Founder of ARAEMISHI Publishing】

从瓦砾中编织未来──在灾难的间隔之间阅读科幻小说

I realized that the reason I read war and trauma literature by authors who had direct experience of war was that I wanted to know how to overcome “doom” and “destruction. ” But it was the worlds of J. G. Ballard and other science fiction authors who gave me what I was looking for even if I didn’t know it. And now, after being prompted by the editors of this publication to write on “times between disaster, ” I know that this is the type of literature we should be looking to.
I don’t know if war is on the horizon for us or not. However, as long as we live on this archipelago, natural disasters will inevitably occur again. We will not only be affected by earthquakes, tsunamis, blizzards, and heavy rain, we may not even survive them. We will always live through hardships, going from disaster to disaster, so we need to predict the future even if it is fundamentally unpredictable. Reading science fiction literature that is supposedly about “doom” and “destruction” is also a way to learn about such unpredictable futures. The following passage from J.G. Ballard’s essay “Which Way Out of Inner Space? ” helps illustrate this point. “The first true s-f story, and one I intend to write myself if no one else will, is about a man with amnesia lying on a beach and looking at a rusty bicycle wheel, trying to work out the absolute essence of the relationship between them.” This beach scene leads me straight to the site of the 2011 tsunami on the Sanriku coast. I wasn’t the only survivor to be paralyzed by looking at the absurdity of the tsunami’s wreckage. Unlike Ballard’s character with amnesia however, we haven’t lost our memories. We are paralyzed by the everyday wreckage of yesterday. Perhaps Ballard himself was another survivor who didn’t lose his memory, paralyzed not by the tsunami, but the memory of war.
In the middle of the night, we headed north down Route 6, which connects Miyagi and Fukushima prefectures. Eventually, you will enter an uninhabited area where the residents have been evacuated. There are no other cars in the area, and the darkness is deep. The night sky on the sea side brightens with a glow, and work is going on 24 hours a day at the Fukushima Daiichi Nuclear Power Station. The cursed remnants of technology rise in the land of desolation. And then, I feel a deeper darkness than just the darkness of the night. Whenever I see the scene, the beautiful, cold and desolate worlds drawn by Ballard flood into my mind. I realize that we are already in a future that we didn’t expect, a future that didn’t wait for us; it is always moving forward.
(Translation by Mimu Sakuma, Matthew Mullane)

こんな特集に登板しながらなんだが、私はSF読みではない。いや、読んではいるのだが、なんといえばいいか、意識的に体系的に読んではいないのである。なにせ、宮城県仙台市で零細とはいえ出版社を営み、古本屋〈古本あらえみし〉のおやじでもありなのだから、本まみれの人生ではあるわけで、ジャンルを問わず雑食にして乱読、SFかどうかなど意識することなく、あれやこれやと読んできた。ま、好きな作家ならどんなジャンルのどんな作品でもといったところか。わが書架を見やれば、とりあえずSFと呼ばれる作家の作品といえば、J・G・バラード、カート・ヴォネガット、スタニスワフ・レム、ジーン・ウルフ、アンナ・カヴァン……といったあたりか。海外作家が多いのは、サンリオSF文庫と、近年なら国書刊行会の影響が大きい世代だからだろうか。

そんな私をこの場に引きずり出したのは本ウェブ誌同人の藤原辰史さんである。藤原さんとは読売新聞読書委員会で1年間にわたって、なぜかいつもとなりの席でおつきあいいただいた。委員会が終わった深夜、酒を酌み交わしたりもして、その藤原さんに「今度こんなコトやるので、原稿を」と言われれば、書かずばなるまい。ましてお題が「瓦礫から未来を編む──災間に読むSF」とあっては、なおさらである。

前述の通り、宮城県仙台市で出版社を営んでいる。10年前の東日本大震災、私たちも大きな被害を受けた。私はといえば、自宅マンションが全壊、半年ほど避難生活を体験、津波で生命を落とした知人の棺も担いだ。被災地の出版社として災害報道にも取り組んで、瓦礫の浜辺をくまなく歩いた。さらにいえば、仙台に拠点を移す以前、東京で15年間、フリーランスのライター/エディターとして暮らしていたのだが、その大きなテーマのひとつが災害だった。雲仙普賢岳噴火、阪神・淡路大震災、北海道南西沖地震による奥尻島津波、有珠山と三宅島の噴火……と、現場に足を運び、原稿を書き、本を編んだ。仙台に移ってからも岩手・宮城内陸地震を取材、東日本大震災後も熊本地震と北海道胆振東部地震があった。

そんな経験から、被災者としても取材者としても、震災に関係する原稿依頼はすべて受けると決めている。だからこの原稿も引き受けたわけだが、ためらうところもあった。まずは前述の通り、SFジャンルの善き読み手ではない。もうひとつ、これはじつは過去にもあったのだが、特に東日本大震災の場合、その現状や実情をリポートする、あるいは論ずるのはいわば被災地の出版人としての私の職業的義務とまで言ってもいい。だが、被災の渦中で読んだ本、聴いた音楽、あるいは演劇などに関して書く、これが難しい。どうしてもそれに触れた被災者としての個人的な感情が絡まって、冷静に客観的に語れない、語る自信がないのである。

とまれ、そんな私の読み手としての書き手としての〈揺れ〉まで含めて与えられたテーマが「瓦礫から未来を編む──災間に読むSF」と思えば、腹を括ってまずは書き進めよう。

東日本大震災の災後の日々にあって「本」にはずいぶんと助けられた。壊滅した都市、破壊された暮らし、死者・不明者とその残された家族の悲嘆、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や震災鬱に苦しむ人たち、生活再建の苦闘のなかで本は編んで書けば生活の糧、読めば行く末を照らす光となった。これは私だけではなかったようだ。被災地では本がよく売れた、よく読まれた。私も新旧問わずに、現実のリアルな大混乱から避難するかのように読書に没頭した。私の場合、古典がよく効いた。

そんななかでSFである。まずはJ・G・バラード(英、1930-2009)だった。バラードは以前から好きな作家だったが、特に読みふけったのは『太陽の帝国』(高橋和久訳、国書刊行会、1987/原著=1984)以後の作品だった。SFというよりも現代文学の重要な作家として、ジャンルを超えたバラードならではのシュールでクールな世界観に惹かれていた。「ぶっ飛んだ」世界観といってもいいか。東日本大震災を経て、ふたたびバラードを読むきっかけとなったのは『J・G・バラード短編全集』全5巻(東京創元社、2016-18)の刊行だった。2016年に刊行がスタートしている。災後5年、無我夢中の被災の日々がやっとひと段落、ほっとひと息、そんなタイミングだったような気がする。

バラードの全短編を発表年順にまとめた全集で、初期作品から実験的とも前衛的ともいえる作品群まで、既読の作品も多かったけれど、ああ、そうだったのかとあらためて納得させられもした。〈ヴァーミリオン・サンズ〉シリーズをはじめとした荒廃の美が脳内イメージとしてだけでなく、三陸の海辺の光景と二重像になって、登場人物たちの孤独が胸に響いた。終末SFとして読んでいた作品が、異貌の「いま」を逆照射していた。未来ではなく、私にとっての「いま」がそこにあった。全5巻は三陸の海辺の荒廃を見続けてささくれた私の精神をたしかに慰撫してくれた。

既読・未読を含めたバラードの長編作品をさらに読み続けた。初期作品なら暴風が地上のすべてを吹き飛ばす『狂風世界』(宇野利泰訳、東京創元社、1970/原著=1962)、地上の陸地がほとんど海に『沈んだ世界』(峰岸久訳、東京創元社、1968/原著=1962)、雨が降らなくなり乾き切った『燃える世界』(中村保男訳、東京創元社、1970/原著=1965)、生物・無生物ありとあらゆるものの結晶化が進む『結晶世界』(中村保男訳、創元SF文庫、1970/原著=1966)がある。カタストロフに瀕した世界が執拗に描写されて、その描写のみが目的のような異様な作品群である。

続いて『クラッシュ』(柳下毅一郎訳、ペヨトル工房、1992/原著=1973)に『コンクリート・アイランド』(大和田始+國領昭彦訳、太田出版、2003/原著=1974)に『ハイ・ライズ』(村上博基訳、ハヤカワ文庫、1980/原著=1975)と、こちらは自動車や高速道路や超モダンな都市機能に取り込まれ、破滅していく人間たちを描いてニューロティックでシュール、既にSFの範疇を超える。

そして、スタイリッシュなファンタジー『夢幻会社』(増田まもる訳、創元SF文庫、1993/原著=1980)があり、生まれ育った上海、戦時下の体験を基とした『太陽の帝国』(1984)と、戦後、英国帰国からを綴った『女たちのやさしさ』(高橋和久訳、岩波書店、1996/原著=1991)が続く。

『太陽の帝国』が英ブッカー賞候補となったりスティーヴン・スピルバーグにより映画化されて以後、テロ、殺人、環境破壊などなどをテーマとした(『奇跡の大河』[浅倉久志訳、新潮文庫、1988/原著=1987]/『殺す』[山田順子訳、東京創元社、1998/原著=1988]/『楽園への疾走』[増田まもる訳、東京創元社、2006/原著=1995]/『コカイン・ナイト』[山田和子訳、新潮社、2001/原著=1996]/『スーパー・カンヌ』[小山太一訳、新潮社、2002/原著=2000/『千年紀の民』[増田まもる訳、東京創元社、2011/原著=2003])、もはやSFと呼べそうもない、かといって主流文学からもどこかはみ出したバラードならではの作品群も見逃せない。

同時代作家として私がリアルタイムで読んだのはやはり『太陽の帝国』から、それ以前の作品はいわば過去の名作として読んだ。『狂風世界』をのぞく初期三作は「破滅三部作」(『狂風世界』が入らないのは物語が破滅ではなく復興を予感させて終わるからだろうか)と、『クラッシュ』に『コンクリート・アイランド』に『ハイ・ライズ』は「テクノロジー三部作」などと呼ばれるらしいけれど、たとえば「テクノロジー」といったところでなにせ1970年代のそれであってみれば、いまや昔なつかしのテクノロジー、ニュー・ウェーブSFの旗手とか「インナー・スペース」論争といっても、現在の読者にとってはやはり歴史のひとコマではあるだろう。半世紀前の「前衛」「先鋭」がいまや「普通」になってしまうのは仕方がないことではあるのだが、むしろ、それゆえにシンプルに作品を愉しめるようにもなっているのでは……と、このあたりの事情を評したのは、藤原編集室の藤原義也さんだった。ちなみに、私がいちばん好きなのはファンタジー色の強い異色作『夢幻会社』である。続く『太陽の帝国』と『女たちのやさしさ』と並べて「自伝的三部作」とでも呼びたくなるのは私だけだろうか。

さて、そんなバラード作品のベースには『太陽の帝国』に描かれた戦争体験がある、これはもはや定説だろう。上海のイギリス人として生まれ育ち、日本軍の戦時捕虜収容所で3年間をすごして、そして戦後の見知らぬ祖国への帰還、この体験が作品の「破滅」と「破壊」の描写に濃厚なカゲを落とす。その執拗なまでの描写が、舞台が未来社会に設定されていながらきわどいばかりにリアルなのは、この上海体験があってこそといえよう。そして、結果としての人間の「破滅」と「破壊」──熱狂的なセックス、高層マンションやリゾートの狂乱、テロと殺人──、あるいは環境破壊もまたその延長にある。

東日本大震災を経て、被災地の読者たる私の胸に迫ったのも、おそらくはこの「破滅」と「破壊」のバラード世界である。特に初期4作に関して言えば、設定はSF的でありながら一種の〈災害小説〉とも読める。具体的にはたとえば『狂風世界』。暴風により建物がなぎ倒され、その瓦礫さえもが吹き飛んで、やがて一面の荒野となる。風と波の違いはあっても、この過程を私たちは三陸沿岸で目撃した。そして、『沈んだ世界』。海の底に沈んだ世界、物語のなかで、ある理由によってロンドンの水が抜かれる。海水が引いて、あらわれた都市の残骸、これもまた私たちはたしかに見た(このイメージのベースに津波があるのを示唆する記述が自伝『人生の奇跡』にある)。

あるいは「テクノロジー三部作」なら『ハイ・ライズ』の人間の狂気によって破壊されるハイテク高層マンション。狂気ではなく強烈な地震の揺れのためではあったが、同じく廃墟と化して取り壊されたわがハイテクならぬ中古マンションの光景がよみがえって、『クラッシュ』や『楽園への疾走』などテクノロジーや環境破壊を描いた作品を読めば福島第一原子力発電所に連想は繋がり、殺人やテロとなれば、これは被災地に限らず世間を騒がすどこか不気味な事件を想起させられて、いやはやである。

読者を不安に陥れるそんなバラード世界のベースにある戦時下上海の体験は『太陽の帝国』だけでなく書評エッセー集『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』(木原善彦訳、白揚社、2003/原著=1996)や自伝『人生の奇跡』(柳下毅一郎訳、東京創元社、2010/原著=2008)にも詳しいが、もしかすると少年であったバラードにとって、戦争もまた天災に似たなにかだったのではないだろうか。

実際、バラードが描く日本軍の収容所での生活は、混乱からの避難所のようにも読める。この国の被災地に見慣れた被災者のための避難所──多くは学校などの公共施設──や、仮設住宅の集団生活が思い出されるが、バラードが上海で収容されたのも閉鎖された学校、それもなにせ運営するのが日本人なのだから似通っていても驚くことはないのかもしれない。いずれにせよ、バラード世界の「破滅」と「破壊」の基層には、その戦争体験、平和な上海から戦火の収容所生活、そしてそこからの脱出の日々があった。「破滅」と「破壊」を描くSFは多いが、バラードの場合、それを上海体験が支えてリアルなのだ。

バラードは『太陽の帝国』に関して「なぜその小説を書くのに四十年もかかったのか、いまだに自分でもよくわからない」と述懐しているが(『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』)、もちろんこれは自らの体験を物語とするのにそれだけの時間を要した必然に対する韜晦的な発言だろうけれど、あの「破滅」と「破壊」をどのように描くのか、バラードの作品群はその試行錯誤の結実だった、SF的な設定にあるのは予見性ではなく上海で目撃した不条理をいかに理解咀嚼するか、そのための実験だった、そう断言しても乱暴ではないだろう。

被災下でバラードを読んで、私は救われたように思う。眼前の「破滅」と「破壊」をどのように捉えればいいのか。そこから発する人間の「精神の歪み」めいたなにものかにどのように対するべきなのか。戦争と天災はじつは似ている。空爆であれ津波であれ、目の前で都市が生活が破壊される、目撃した者にとってその衝撃は原因の如何を問わない。PTSD「発見」の端緒が、第一次世界大戦後のシェル・ショック(戦争神経症)にあるのはよく知られる。戦争も天災も個人の枠を超える。原発事故の「想定外」とは違った意味で、個人にとっては昨日までの日常の暴力的で瞬間的な「破滅」と「破壊」はやはり「想定外」なのである。

そのような事態を、バラードは──あるいはSFは、なのか──私たちに見せてくれる。強風が吹き荒れ、都市が海に沈み、雨が降らず、世界は結晶化して、テクノロジーが人間を破壊する、そんなSFならではの「想定外」の世界を描いて。そしてその「想定外」を生きる登場人物たち、荒廃した〈ヴァーミリオン・サンズ〉を生きる人びと、そしてそれを描く作家の存在は、逆説じみて、「破滅」と「破壊」を否定する。語る者がいるのだから「想定外」の事態にあっても人間は「破滅」しない、「破壊」されるばかりではない。バラード世界は物語を読むかぎりではディストピアである。希望はない。だが、その作品と作者の存在こそが希望そのものとなる。

そしてだからこそ、東日本大震災後の危機の日々にそれを読んで、私は救われた、そんな気がする。付言すれば、小説作品だけでなく、前述の『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』と『人生の奇跡』は、まさに私にとって混乱を生き延びるガイドとなった。「破滅」と「破壊」と狂気を描いた作家の、穏やかで平らかでクールに理知的な、ユーモアさえも漂わせる筆致、そしてその奥の諦念じみたなにものかまで含めて。

じつは災後の日々、このように思わせてくれた作家はバラードだけではない。たとえば、第二次世界大戦、ドイツ軍の捕虜となりドレスデン空襲を体験したカート・ヴォネガット(米、1922-2007)。早川書房『カート・ヴォネガット全短編』全4巻の刊行開始は2018年、これもまた過去作に遡って『スローターハウス5』(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、1978/原著=1969)など一連の作品を読み返した。氷結する世界を描いた『氷』(山田和子訳、ちくま文庫、2015/原著=1967)で知られるアンナ・カヴァン(英、1901-1968)も戦時下の体験が作品深くにカゲを落とす。スタニスワフ・レム(波、1921-2006)と戦争体験ならば『主の変容病院・挑発』(関口時正訳、国書刊行会、2017/原著=1969)が衝撃的だった。

そして、もうひとり、プリーモ・レーヴィ(伊、1917-1987)がいる。『アウシュビッツは終わらない(これが人間か)』(竹山博英訳、朝日選書、2017/原著=1947)や『休戦』(竹山博英訳、岩波文庫、2010/原著=1963)などの記録文学で知られるアウシュビッツ生還者にして化学者にして作家のレーヴィには、自ら「SF」と呼ぶ『天使の蝶』(関口英子訳、光文社古典新訳文庫、2008/原著=1966)や『周期律』(竹山博英訳、工作舎、1992/原著=1975)などの作品がある。戦争の「破滅」と「破壊」を体験した作家たちのSF、ほかにもまだまだあるだろうけれど、東日本大震災の「破滅」と「破壊」を目撃しながら私が読んだのはこれらの作家たちの作品だった。

日本の作品ならやはり再読三読の『日本沈没』(カッパ・ノベルス、1973)の描写が圧倒的な小松左京(1931-2011)が、SFから離れれば島尾敏雄(日、1917-1986)がいた。特攻艇「震洋」隊長としての戦時体験が戦後の『死の棘』(『群像』ほか連載、1960-76)の世界へと繋がって、島尾もまたSFとまではいえないが幻想的作品を残している。

ジャンルを超えて、戦争を体験した作家たちが残したこれら物語を、戦争文学として、トラウマの文学として読めば、詰まるところ、災後の私が求めたのは「破滅」や「破壊」をどのように乗り超えるか、その文学的な知恵だったのかもしれない。SFのジャンルでそんな私の渇望に応えてくれたのがバラード世界であり、ここに挙げた作家たちだったのか。意識して読んだわけではなかった。この原稿を書きながらいま顧みてそう思わせられて、さて、与えられたタイトルに「災間」の2文字がある。戦争がこれから起こるのかどうかはわからない。だが、この列島に生きる限り、自然災害はかならずまた起きる。地震、津波、豪雨、豪雪、誰が被災してもおかしくない。生き延びられないかもしれない。私たちはつねに「災間」を生きる。「想定外」の「未来」をあらかじめ、読む。「想定外」の「破滅」や「破壊」を描くSFは、そんな文学なのかもしれない。

バラードがSFを語った言葉として縷々引用されるのがエッセー「内宇宙への道はどちらか?」(『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』所収)の以下の一節だ。「真のSF小説の第一号は──誰も書かなければ私が書こうと思うのだが──記憶を失った男が浜辺に横たわり、錆びた自転車の車輪を見つめ、その車輪と自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとする、そんな物語になるはずだ」……この浜辺の光景は私にはストレートに三陸の海辺へと繋がる。津波の残骸が漂着した浜辺で、その不条理に立ち竦んだ被災者は私だけではないはずだ。ただ、違うのは、私たちは記憶を失ってはいなかった。残骸に昨日までの日常の記憶を重ねて立ち竦んだのである。おそらくは、バラードもまた記憶を失ないえなかったそんな被災者のひとりではなかったか。その「破滅」と「破壊」の原因が地震と津波ではなく、戦争だったとしても。

深夜、宮城県と福島県を繋ぐ国道6号線を北に下る。あるいは南に走ってもいい。やがて住民が退避した無人のエリアに入る。ほかにクルマはいない。闇が深い。と、海側の夜空が芒と明るむ。24時間体制で作業が進む福島第一原子力発電所。荒廃の地にそびえるテクノロジーの呪われた残骸。夜の闇だけではない、さらに深い闇を感じる。この光景を見るたびに、バラードの描いた世界が脳裡をよぎる。その冷ややかな「荒廃の美」をも含めて。私たちはすでに「未来」を生きている。



ひじかた・まさし
1962年生まれ。フリーライター、編集者を経て2005年に出版社「荒蝦夷」、2019年に「古本あらえみし」を設立。雑誌『仙台学』(2005-)、『震災学』(2012-)などを発行、発売。「叢書東北の声」シリーズなどを刊行。主な著書=『てつびん物語 阪神・淡路大震災 ある被災者の記録』(偕成社、2004)、『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』(偕成社、2006)、『瓦礫から本を生む』(河出文庫、2020)など。
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Masashi Hijikata
Founder of ARAEMISHI Publishing
Owner of ARAEMISH, second hand book store
living in Fukushima

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