第1号 特集:SF生環境構築史大全 A Sci-Fi Guide to Habitat Building History 科幻生環境構築史大全
退屈な都市と退屈なSF、過去に語られた未来から逃れるために
樋口恭介【SF作家】
The future is going to be boringKyosuke Higuchi【Scientific Fiction Writer】
无聊的城市、无聊的科幻,为了逃离过去所描绘的未来
“The future is going to be boring,” said J. G. Ballard. When we think of the words “city,” “future,” and “science fiction,” the images that come to mind are in fact not so new. They were created by science fiction authors at the beginning of the twentieth century. Many of the ideas of the future that we typically imagine in our head are the ones that have been created in the past. The reason why these images seem so boring is that they were created more than one hundred years ago, and we have lived with them for just as long.
As people living in the twenty-first century, we should create a new science fiction that fits with our generation. We need to create a completely new vision of “Utopia” or something that replaces it, a radically different concept. Within contemporary science fiction, there is a new kind of future-oriented fiction that instead of offering a singular future, presents the reader with endless possibilities that they can choose from. The process of mixing these possibilities will gradually nurture a new future. Therefore, to explore the countless opportunities of our future, we should read the science fiction that we write in the twenty-first century.
Science fiction writers and scientists dream through reality. Politicians and entrepreneurs see reality through dreams. Dreams and reality affect each other reciprocally. From fiction to reality, from reality to fiction, trading ideas with each other, reading from different angles over and over, analyzing and examining the content repeatedly in various ways, adjoining different interpretations, creating a neo-future slowly but surely. Science fiction, as a genre, depicts speculative and alternative worlds derived from advanced scientific research. Science fiction authors have the power to transform the ideas from scientific research into speculative realities that then become a part of our material reality as gadgets and new inventions. We can call this metaphor, but what we need for the sake of a new future is the influence of analogy. All words are metaphors, but the power of analogy can bring the metaphorical closer to reality.
“And we have become a breeze, ” wrote Toh Enjoe. Needless to say, this statement here must also be a metaphor. However, we can draw something from it and cast some other possibilities that are not here into reality that is not here. We, also, become a “breeze. ” The sentences we write stop changing form once they are written; however, their interpretations are endless. If we continue to read science fiction, we will one day be able to understand that the provocation to “become a breeze” is a corporeal feeling of reality, not just a metaphor.
(Translation by Mimu Sakuma, Matthew Mullane)
[2020.11.1 UPDATE]
──円城塔『Self-Reference ENGINE』
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2020年に世界中で猛威をふるった新興感染症「COVID-19」は、それまで人々がぼんやりと感じていた不安を明確かつ具体的なものとして示した。不要不急の外出は控えること、外出時には必ずマスクを着用すること、食事中の会話を控えること、感染拡大防止策がとられていない飲食店、クラブやライブハウスには立ち入らないこと、そうした「新しい生活様式」をこれからは「ニュー・ノーマル」として定着化させること──すなわち、「未来は退屈だ」ということである。
1973年に発表されたJ・G・バラードのSF小説『コンクリート・アイランド』(大和田始+國領昭彦訳、太田出版、2003)は、高速道路下のデッドスペースに落ちた男が、高度化し複雑化した都市ネットワークの間隙に閉じ込められ、物理的にも精神的にも他者と隔絶される物語だった。そこでは、資本主義とともに発展した都市の陥穽が文字通り描かれていた。コンクリートの島に生きる男は、入り組んだ都市の内部にあって、都市に見捨てられ、やがて都市に見捨てられた自らの運命を受け入れる。彼は悪臭と病いのなかにあって、誰にも共有不可能な精神世界の豊かさに触れる。彼は「コンクリート・アイランド」から脱出したいと思うが、同時に、そのままでありたいとも考える。「コンクリート・アイランド」はどこまでも両義的な空間で、そこからJ・G・バラードの主張を一意に読み取ることは難しい。しかしながら、少なくともJ・G・バラードが、空間的にも時間的にも、延々と広がり続ける都市の現状と未来に対して批判的な見解を持っていたとは言えるだろう。なぜなら私が冒頭に書いた「未来は退屈だ」という言葉は、何を隠そうJ・G・バラードその人の言葉なのだから。
2020年の都市に生きる私たちもまた、『コンクリート・アイランド』で描かれた男と同様、都市のなかにありながら、孤独であることを強いられている。都市は人を集め、労働と消費を加速させ、経済を活性化させる機能を持つために、近代資本主義とともに発展してきた。そこに住まう人々が、より安全に、より便利に、より幸福になることを信じて、都市はより強固に、より巨大になるよう自らを拡張させてきた。しかしながら、今ではそうした構想はすでに破綻していることを、2020年の私たちは知っている。都市はたしかに人に安全を与え、便利さを与え、労働と消費を加速させたが、それを永遠に約束するものではない。人はそこにとどまり続けるものではないし、都市の存在を根拠づける宇宙や惑星や自然や生物たちのエコシステムもまた、都市の永遠を約束するものではない。もちろんそれは今に始まったことでもない。それは都市が生まれた当初から、SFが書かれ始めた当初から、何度も繰り返し指摘されてきた問題であり、「ディストピア」という言葉とともに、私たちが親しみ続けてきたヴィジョンでもある。
「ディストピアSF」の代表作として今も多く読まれている、エヴゲーニイ・ザミャーチン『われら』(川端香男里訳、岩波文庫、1992/原著=1921)、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(松村達雄訳、講談社文庫、1974/原著=1932)、ジョージ・オーウェル『一九八四年』(高橋和久訳、早川書房、2009/原著=1949)は、いずれも20世紀の前半に書かれている。ディストピアSFはひとつの型を成しており、前述の3作が、ディストピアSFを構成するほとんどすべての要素を提示している。たとえば21世紀の国内ディストピアSFの傑作として、伊藤計劃『ハーモニー』(早川書房、2008)が挙げられるが、そこで描かれる「全体主義」や「管理社会」、そしてミシェル・フーコーが言うところの「生権力」からの「逃れられなさ」は、いずれも『われら』や『すばらしい新世界』『一九八四年』のなかで描かれてきたものの変奏である。私たちは、現在の延長線上にある未来についてはよく知っており、そしてその未来に対して、これまで繰り返し絶望し続けてきたのだし、今ではより一層明確に具体的なあり方で、絶望的な未来を思い描けるようになっている。
あるいは、「退屈な未来」という印象は、「ディストピア」に限らず「ユートピア」というヴィジョンに対しても向けられるものだろう。17世紀に書かれたトマス・モアの『ユートピア』(平井正穂訳、岩波文庫、1957)は、外界から隔絶された小さな共同体において、理性による管理・統制が行き届いた社会を理想として描いており、おそらく今の私たちからすれば、その世界はディストピアそのものであり、そこから新たな未来のヴィジョンを獲得するのは難しい。トマス・モアによるユートピアのヴィジョンは、シャルル・フーリエやアンリ・ド・サン=シモン、ロバート・オーウェンといった思想家たちによる政治活動に引き継がれていったが、その後のマルクスとエンゲルスによる批判を引かずとも、そこから実践的な解を導くのは、現代にあって困難であることは自明だろう。
一方、19世紀後半から20世紀前半に活躍した、ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズ、ヒューゴー・ガーンズバックらは、科学によって発展された未来都市を描き、近代の「ユートピア像」を確立した。そこでは国境がなくなり、宗教がなくなり、世界はひとつになっている。超高層ビルから成る都市をチューブ型の空中列車がつないでおり、チューブの隙間を縫うようにして、空飛ぶ車が飛び交っている。人々は休日には世界旅行、あるいは宇宙旅行や時間旅行に出かけてゆく──。こうしたイメージは「一般的な未来」であり「一般的なSF」だが、逆に言えば「未来」や「SF」は、この1世紀のあいだに、一度もそのヴィジョンを更新することができなかったのだ、と指摘することができる。
現在に至るまで共有され保持され続けてきた「都市」「未来」「SF」のイメージは、ほとんど20世紀初頭までのSFのなかにあり、私たちが普段「未来」として思考しようとするときに思いつくアイデアの多くは、過去にすでに書かれたものである。私たちが「都市」や「未来」や「SF」を「退屈だ」と感じるのは、そこにある「都市」や「未来」や「SF」が100年以上前のものだからなのであり、思考のなかでは100年以上ともに生き続けてきたものだからなのだ。
もちろん、そこにあるヴィジョンのなかには現実化していないものも多くあり、それらを実装することに意味がないわけではない。世界をひとつにつなぐ都市が生まれること、空飛ぶ車が当たり前になること、宇宙旅行が当たり前になること──そうした20世紀的な「未来」の夢を追い続ける、イーロン・マスクやピーター・ティールといった事業家がいなくては、未来は一層先細り、一層退屈なものになってゆくことは明白だろう。ケヴィン・ケリーは、「ユートピア」や「ディストピア」に代わる新たな未来社会の考え方として、「永遠にユートピア/ディストピアの手前にあり続けるもの」という意味の「プロトピア」という概念を提示している。ケヴィン・ケリーの思想に則れば、「ユートピア」をつくることは不可能でも、それを諦め社会がそこにとどまり続けることは最悪の事態であり、それを避けるための漸進的な改良・保守は必要であるために、イーロン・マスクなどは、少なくとも「プロトピア」の担い手のひとりとして位置づけ評価することができるだろう。
しかし、繰り返しになるが、そこで想定される「未来」は、21世紀にとっての「未来」ではないことは忘れてはならない。20世紀の人々によって描かれた未来のヴィジョンは、20世紀の科学政策や都市設計、資本主義そのものの発展に大きく寄与したが、20世紀はとうの昔に過ぎ去っており、現在求められるものはその先にあるものだ。21世紀の私たちは、21世紀のためのSFをつくらなければならない。まったく新しい「ユートピア」のヴィジョンを、あるいは、それに代わる何か、根本的に異質な概念を、私たちはこれからつくりだしてゆく必要がある。そして、そのとき思考のヒントになるのもまた、現代SFをはじめとした、未来を志向するフィクションたちだろう。そこには確定的な未来はないが、不確定な未来の契機は無数にあり、私たちがそれらをすくい上げることで、新しい未来は少しずつ育まれてゆく。だから、21世紀に生きる私たちは、21世紀に書かれたSFを読まなければならない。
そう、21世紀のSFを読もう。たくさんの、新しい時代のSFを読もう。そこから私たちは、単なる地上のメガロポリスでもなければ、海底都市や海上都市でもなく、宇宙ステーションやスペースコロニーでもなく、使い古しのサイバースペースでもない、新たな場所や新たな都市、本当の意味での「新しい生活様式」への探索の試みを読み取ることができる。21世紀の新しいSFたちは、けっして20世紀的な「未来予測」の試みにはなりえないものの、少なくとも、「ここではないどこか」の「創造の可能性」に向けて手をのばすことを試みた、ひとまとまりの思考の痕跡にはなっている。
以降は21世紀のSFを、それも、「ユートピア」「理想郷」といった言葉に触れつつも、それらの言葉がこれまでまとってきた固定的なイメージを刷新しうる、新しい時代のSF作品を紹介する。
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都市は一種の生物であり、独自のバイオリズムを持っている──こうした着想の歴史は古く、諸星大二郎「生物都市」(『諸星大二郎自選短編集 彼方より』所収、集英社文庫、2004/発表=1974)や神林長平『過負荷都市』(ハヤカワ文庫、1996)、アレステア・レナルズ『カムズシティ』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫、2006)など、SF史においても何度も繰り返し語り継がれてきた。
そうした「都市=生物SF」の系譜に連なる最先端のSF作品としては、津久井五月のデビュー作『コルヌトピア』(早川書房、2017)が挙げられる。生物としての都市のありかたを現代的にアップデートした本作は、近未来都市の新たなヴィジョンを直接的かつ明示的に提示しており、「現実的にありうる未来」を探索するSFとして、高い水準に位置するものと考えられる。
2017年に発表された本作では、植物の生理機能を演算に応用する技術が開発された世界にあって、植物と一体化した都市と人間の生活が描かれている。東京は「グリーンベルト」と呼ばれる緑地帯に囲まれ、都市に必要な電力は、グリーンベルトに実装された「緑地発電システム」によって生み出される。「植物の根に集まり余剰の有機物を分解する微生物を利用」し、「微生物の活動を制御する」ことで、「天然の蓄電池」のように調整されている。人々はうなじのあたりに「角(ウムヴェルト)」と呼ばれるデバイスを装着しており、それを通してグリーンベルトに接続されている。ウムヴェルトは「レンダリング」と呼ばれる機能を有しており、ウムヴェルトを介してレンダリングを行うことで、人々は、グリーンベルトを構成する植物たちの生理パタンと同期することができる。これらの概念をひとまとまりにした総称が、作中で「フロラ」と呼ばれるシステムである。
『コルヌトピア』の世界では、人が都市を運営するために「フロラ」が必要不可欠になっている。都市に生きる人々はフロラを利用する必要があり、フロラを介して植物たちの思考や体調やその世界の全体像を理解し配慮する必要がある。植物に配慮するためには、ほかの動物たちや、風や、土といった、植物たちを取り巻く要素についても理解し配慮する必要がある。『コルヌトピア』における人間は、「都市を運営する」というきわめて人間中心主義的で限定的な目的のための、限定的に合理的な選択における部分最適の帰結として、自然と脱人間中心主義に至らざるをえないというわけだ。そこでは人々が人々であるために、地球全体の全体最適性について配慮せざるをえないということが、フロラと呼ばれるアーキテクチャの内にあらかじめ織り込まれているのであり、そのアーキテクチャを介することで人々は、権力に強いられることなく、理性による規律訓練がなされることなく、自律的に地球と「共生」することが可能となる。一言で言えば、市民一人ひとりが意識的に環境に配慮するのではなく、市民が無意識的に環境に配慮するような生き方を選択しているという都市機能が、『コルヌトピア』では実現されているのだ。
もちろん、「自然とともに生きる」ことを描いたSFは過去にも多くあり、代表的なものにアーネスト・カレンバック『エコトピア』(1975)などが挙げられるが、『コルヌトピア』で描かれた、「植物の意識と同期する」ことが「人であり続けるために求められる」という視点は、それまではユートピアSFではほとんど描かれてこなかったために、ここから新しい未来への萌芽を受け取ることができるとは言えるだろう。
津久井五月という作家は、「何気ない人の小さな欲望」と「地球全体のエコシステム」を直接的に接続する展開を構成するのが非常に巧みな作家であり、『WIRED』Vol.37に掲載された短篇「地下に吹く風、屋上の土」においても、ソーシャル・ディスタンス以降の世界を舞台に、同様のテーマが反復されていた。概要を簡単に紹介しておこう。
2020年の現実と同様、「地下に吹く風、屋上の土」の世界においても、(COVID-19をモデルとした)新型ウイルスへの対応として、「新しい生活」が求められており、その結果として人々は、「ログ派」と呼ばれる集団と「スコア派」と呼ばれる集団の2派に分かれている。「ログ派」は、政府によって管理される「位置情報ログ」に基づき、人々との物理的な距離を確保することを基本的な行動様式としており、他者との不要なトラブルを避けるために可能な限り外出を控えている。一方「スコア派」は、「イミュノメータ」と呼ばれる「感染症抵抗力スコア」を定量的かつリアルタイムに表示するデバイスを装着し、「自分は病原体に対して十分な基礎抵抗力を持っている」ことを証明することで、可能な限り都市の中を自由に行動する。物語の主人公はログ派の青年で、普段は引きこもりがちだが、彼はある日、スコア派の恋人にクラブへと連れて行かれる。2人はクラブの屋上で、土を耕し野菜を育てる男に出会う。2人は男と仲良くなり、以降も青年は男の畑仕事を手伝うようになる。ログ派だった青年はいつしかスコア派になり、イミュノメータの表示を眺めては外に出かけるようになる。やがてあるとき青年は、「イミュノメータのスコアは、本人の状態によらずに常に揺れ動いている」ことに気づく。青年はイミュノメータの原理について、次のように直観する。「スコアの微小変動は、この世界そのものの揺らぎに等しい。僕たちの身体は、その揺らぎと確かにつながっている。どこかの森林に暮らす何らかの動物の体内で、たった今偶然にも変異しようとしているRNAウイルス一つとっても、僕と無関係ではない。培地となったこの世界では、彼我の距離はゼロに近づき続けているからだ」。そして青年は、ウイルスへのささやかな抵抗として、畑を耕し続けることを自らの意志として選択する。本作では、イミュノメータのスコアが行動の自由を約束するために、イミュノメータというアーキテクチャの必然として、大地とともに生きることが結局のところ自由への近道なのだ、ということが、物語の結末において明確に示されているのだ。
一方SFの歴史は、「ユートピア」という概念を、都市などの物理的な空間にとどめないヴィジョンとしても提示してきた。1960年代以降の「スペキュラティブ・フィクション」あるいは「ニューウェーブSF」と呼ばれるSFジャンルは、それまでのSFが宇宙を「空間」としてとらえ、外宇宙をフロンティアとして位置づけてきたことに対して異議を唱え、人間のなかにある「内宇宙」もまた、フロンティアには違いないと考えた。本稿の冒頭で紹介したJ・G・バラードなどは、「スペキュラティブ・フィクション/ニューウェーブSF」の代表的な作家であり、前述の『コンクリート・アイランド』においても、語り手の男は、自らの外部にある物理的な都市ではなく、自らの意識の内に、新たな祝祭の可能性を見出してゆく。
そのような、「意識のなかのユートピア」あるいは、「解釈が織り成すユートピア」という視点を踏まえつつ、津久井五月と並んで新時代のSFを代表する、一人のSF作家を紹介しよう。
作家の名前は伴名練という。21世紀のSFを語るにあたって、この名を避けることはおそらくできない。
伴名練の現時点での代表作と言える『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)は2019年に刊行された。本書は同人誌を中心に書かれた6つの短篇を収めた作品集で、それらはいずれも珠玉の作品と言えるが、ここでは「ユートピア/理想郷」をテーマとした表題作の短篇「なめらかな世界と、その敵」を紹介する。
「うだるような暑さで目を覚まして、カーテンを開くと、窓から雪景色を見た」という奇妙な一文で始まる本作は、「乗覚」と呼ばれる「並行世界を知覚する」感覚が発見・強化された世界を舞台としている。「なめらかな世界」の人々は、「こっちに行ったり、あっちに行ったり。あらゆる可能性の中に移って生きている」のであり、乗覚が働いている人々は「全ての可能性を、見て、聞いて、触れることができる」。語り手はむろん乗覚が働く人間であり、そのため冒頭にあるような「うだるような暑さ」にもかかわらず、「窓から雪景色を見」ることができるのだ。
「乗覚」が可能にする「なめらかな世界」。そこで見られるパラレルワールドの夢は、本作においてきわめて高い解像度で表象されている。パラレルワールド設定自体はSFのなかでは古典的な道具立てだと言えるが、本作が一般的なパラレルワールドSFと異なるのは、「全ての世界が同時に重なっている」ということが、身体的な実感を伴うかたちで描出されているということだ。そこでは夏に雪が降り、異なる世界を物理的にまたがることができる。身体の半分だけ並行世界にあるとか、腕だけ異なる世界から来ているとか、あるいは右目だけ、脳だけ、思考だけ、瞬間的な意識だけが異なる世界にあるといった事態が起きうるのが、「乗覚」という感覚のある世界なのだ。そこでは物理的なものだけでなく、情報的なものも含めたあらゆる事象がモジュールとなって、時空を超えてつながりうる。人の認知は無数の世界をまたがり、世界という言葉が含む世界は、原理的に多世界を含むことになる。おそらくそこで描かれる世界の姿は、人間が想像可能なユートピアのひとつの形式と言って差し支えなく、作中においても「理想郷」という言葉が使われ、次のように語られている。
「この、なめらかな世界の人間は、誰もが絶対の理想郷に生きている。苦しみや悲しみを感じても、その苦しみも悲しみもない可能性を担保していて、実際いつでも行使できる」
あらゆる並行世界を同時に生きること。全ての可能性と全ての不可能性が織りなすすべての世界のありかたを、ここにあるものとして認識すること。すべての願い、すべての祈りを、すべての可能世界とすべての不可能世界のなかから調達すること。そしてすべての取りうる組み合わせのうち、望み通りの一瞬を選び取ること──こうした世界は紛れもなくユートピアであり、否定するのは難しいだろう。そうだとすれば人類は、22世紀のユートピアとして、「なめらかな世界」を目指さない理由はない。しかしながらこうした「なめらかな世界」のあり方は、現代の科学技術においては夢想にすぎず、本気にすれば頭のおかしな人間だと思われるかもしれない。1万年とも言われる文明史のなかで、並行世界を観測したことのある者は一人もいないし、ましてや並行世界間を移動することや、複数の並行世界に同時にまたがることなど、一般的には想像することすら難しいからだ。しかしながら、それでもSF作家はSFを信じることしかできないし、それが何かの契機となって、いつかどこか、何か別の仕方で未来をつくるかもしれないことを、手紙を入れた瓶を海に投げ込むようにして、信じるほかない。SFというものはこれまでも往々にして、多くの人には馬鹿にされつつ、一握りの頭のおかしな人間たちによって信じられ、試行され、理論化され、理論は精緻化され、やがて制度やサービスやプロダクトとして実装され、現実のうちに埋め込まれてきたものなのだから。
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SF作家や科学者たちは、現実を通して夢を見る。政治家や事業家たちは、夢を通して現実を見る。夢と現実を相互に行き来すること。フィクションからリアルへ、リアルからフィクションへ、相互に着想を交換し、何度も別の角度から読み返され、さまざまな仕方で繰り返し内容が吟味され検討され、別様の解釈を組み合わせながら、少しずつ、新たな未来をつくり出していくこと。そのようにして、作家は大きなユートピアのヴィジョンを描き、政治家や事業家たちは、プロトピアの実践として、ヴィジョンの現実化を試行する。それは言うまでもないことであり、すでに成されていることではあるかもしれないが、現在を抜本的に見直し、まったく新しい未来を打ち立てるという試みを成すためには、おそらくは今後もそのような、多分野間での地道な連携と往来が必要なのだろう。
そうした交流のひとつの好例として、先ほど私が紹介した「なめらかな世界と、その敵」という小説は、『なめらかな社会とその敵』というタイトルを持つ、先行する書物から着想を得て書かれている、という事実を取り上げることができる。
『なめらかな社会とその敵』(勁草書房、2013)は、研究者であり、著述家であり、そして事業家でもある鈴木健によって書かれた、「革命的」な思想書である。それは今から300年後の、24世紀を生きる人々に向けて書かれていると述べられており、そうした意味ではSFであるとも言える。内容に移ろう。
『なめらかな社会とその敵』においては、細胞壁をはじめとして、生物とは自己と他者を分ける機能を持つ存在であり、そこでは原理的に「友」と「敵」が立ち現れるために、その延長上にある社会は「なめらかさ」を欠いているのだと指摘される。そうであるとすれば、「友」と「敵」の境界を失くすようなネットワークシステムが構築できれば、その論理的帰結として「なめらかな社会」は実現される。その仮説が正しいとしてそれでは、「なめらかな社会」という理想郷は、具体的にどのような制度や技術をもって実装されるのか。そうした問いに対して本書において検討されるのは、PICSYと呼ばれる「世界の価値を最大化することが自己の価値を最大化する」よう設計された貨幣システムであり、「個人ではなく分人であることを前提とした」分人民主主義システムであり、VRやARが高解像度で社会の細部にまで行き渡った、擬似的な「パラレルワールド」である。鈴木健の議論は多岐に渡るが、単純化すればそのようなものになる。「近代国家は、土地や国民、法律などのさまざまな境界を、国家のもとに一元化させてきた」が、「なめらかな社会では、それらがばらばらに組み合わさった中間的な状態が許容されるようになる」というのが本書の主張である。そして、そのような「中間的な状態が豊かに広がる社会」においては、「お互いに完全に一致するアイデンティティを探すことはほぼ不可能で、万人がマイノリティであるような世界をつくりだす」のだ。
『なめらかな社会とその敵』のなかで鈴木健は、SFアニメ『電脳コイル』(2007)における「パラレルワールド性」に言及しながら、「異なる欲望を媒介する技術が重要になるにつれ、人々は異なる認知世界を生きるようになる。いわば、パラレルワールドの急拡大がこれからはじまるのである」と書いているが、おそらくはこうした思想が、伴名練の「なめらかな世界と、その敵」に、かなり直截的に活かされているのだと考えられる。
「なめらかな世界と、その敵」に描かれたような「乗覚」という知覚が、現実的に可能か否かは措くとしても、VRやARなど、情報理論的に操作可能な空間を前提とすれば、異なる空間同士を重ね合わせたり、同じ視野のうちに並べたり、あるいはその空間を共有する者同士でリアルタイムで編集するといったことは可能だろう。一般には「仮想現実」と「現実」は概念として区分されるが、すべての事象は脳や神経、目や口や鼻や耳や皮といった天然のデバイスを介して感覚されるものである以上、人にとっては認知可能な「現実」自体がそもそも「仮想現実」なのであり、現在「仮想現実」とされる現実が、将来的には現在「現実」とされる現実と同等か、あるいはそれ以上の解像度をもったリアリティ(現実感)を得ることは不可能ではない。人間の視野全域を再現するには5億7600万画素数が必要と言われるが、2020年現在、スマートフォンに搭載されたデジタルカメラは1億画素数を超えており、視覚のすべてが手のひらの上で再現/超克されるのは、時間の問題なのだと言えるだろう。
もちろん、「テクノロジーの発展こそが世界のありようを根本的に変えるのだ」ということを、ここでの私は言いたいわけではない。実装されつつあるテクノロジーは、取りうるすべての可能性のうちのひとつの手段でしかないことを、ここまで読んできた私たちはすでに知っているのだから。
繰り返しになるが、学術研究によって得られた着想から、SFは「スペキュラティブ」で「オルタナティブ」な世界を描出する。そしてSFに変換された着想は、ふたたび実装過程において比喩としてとらえられることで、実体を伴うガジェットとして、現実世界に埋め込まれてゆく。つまるところ、すべての言葉は比喩であり、必要なのは比喩を比喩としてとどめることのない、アナロジーの力なのだ。
『なめらかな社会とその敵』に戻ると、鈴木健は、津久井五月『コルヌトピア』「地下に吹く風、屋上の土」の設定にもつながるような着想を、本書の末尾に提示している。少し長くなるが引用しよう。
「なめらかな社会における資源と意思決定の問題は、本来、生態系全体の中で考えるべきであろう。すなわち、人類以外の生物も含めて、資源の貨幣的交換や集合的意思決定を行うことはできないのだろうか。イルカの研究で著名なジョン・リリー(神経科学)は、クジラやイルカに国連の議席を与えるべきだと主張した。これは決して笑い飛ばすような論点ではない。人類が生態系の一部である以上、他の生物の存在を含めなければ、なめらかな社会システムは未完なままである。拡張現実の技術は、現在のところ人間のために使われているが、今後は魚や草花のための拡張現実ができるようになるだろう。情報技術によって人間同士のコミュニケーションのプロトコルが増えたのと同様に、異なる種の間でのコミュニケーションが多様化するのは必然である。人間が虫や鳥や木ともっと交流できるとしたらどれだけすばらしいことだろう。こうした技術の延長線上に、生態系全体としての集合的意思決定や資源配分問題を解決する社会システムを構想することができるはずだ。近代以降、人間は他の動植物の頂点に立つ非対称な存在として世界をとらえていた。だが、人間中心主義の時代は終わりを告げようとしている。なめらかな社会が生態系にまで広がり、より対称性のある社会が可能になるかもしれない」
なめらかな社会を生きること、その「なめらかさ」を既存の社会の外側にまで拡張してゆくこと。あるいはそもそも、「社会」という閉じた共同体の概念/語彙を用いるのではなく、「世界」や「宇宙」と、ひとまず言ってみること。津久井五月や鈴木健や伴名練の物語に触れた私たちが、22世紀に向けてなすべきことは、まずはそういうことなのかもしれない。
人であることから動物であることへ、動物であることから、植物や微生物を含む生物そのものへと変わってゆくこと。あるいはもはや生物ですらなく、単なる物質として、単なる存在として、単なる現象として自らをとらえなおすこと。宇宙の構成要素のひとつであって、同時に生成を続ける宇宙そのものとして、宇宙のすべてとともに生きるということは、人間でありながら宇宙そのものと同一化するということなのかもしれない。友と敵を分ける〈私たち〉ではなく、固有でかけがえのない、今・ここにいる〈私〉でありながら、すべての宇宙のすべての現象としての〈私〉とともにある、すべての宇宙のすべての現象としての〈私〉であること。
ここで私はひとつのSF小説のことを思い出す。SF作家の円城塔は、2007年、「語られた22の物語」と「語られることのなかった無数の物語」から成る長編作品『Self-Reference ENGINE』のなかで、こんなことを書いている。
「それは、計算とアクチュエイターの同一化でもあった」
「以降、巨大知性体群にとって計算とは自然現象と区別のつけられないものとなった。今ああして浮かんでいる、字義通りの幾何学構造をしか持たない円周などがその証拠ということになる。意図したことのそのままの実現、というよりは、意図と結果の非乖離性の実現」
ここにある記述もまた、もちろん比喩であるには違いない。しかしながら、私たちはそこから何かを汲み取り、ここにはない何か別の可能性を、ここにはない現実に向けて投げかけることができる。
私たちが目指すべきすべての未来は、おそらくは「そよ風」のなかにあるのだ──と、私はここでそう言ってみることはできるのだし、本稿の最後にそう言ってみることで、私たちは次の比喩へと目を向けることができるようになる。
私たちはそよ風になる。文はつねにすでに終えられつつあるが、文に纏わる解釈が終えられることはない。私たちがSFを読み続ける限り、いつの日にか、私たちは、「そよ風になる」という文が表す意味を、身体的な実感を伴う「現実」そのものとして知ることができるだろう。
人が人として生き抜き続ける限りにおいて、比喩とアナロジーの円環が閉じられることは決してないのだと、ここでこうしてこのように、私は断言してみせる。
ひぐち・きょうすけ
1989年生まれ。SF作家、会社員。主な著書=『構造素子』(早川書房、2017、第5回ハヤカワSFコンテスト大賞)、『すべて名もなき未来』(晶文社、2020)。おもなエッセイ・評論など=「ディストピア/ポストアポカリプス」(『現代思想』2019年5月臨時増刊号)、「たった一人のパンク・ロック──ノイズ作家、Kazuma Kubotaのこと」(『ele-king』、2020年6月4日配信)、「都市の崩壊、宇宙の拡大」(『週刊読書人』2020年9月18日号)、「エイリアンと会話する練習」(「trialog Vol.3」)ほか。
twitter ID: @rrr_kgknk
note ID: kyosukehiguchi
Kyosuke Higuchi
Scientific Fiction Writer
Kozo-Soshi, Grand Prize in 5th Hayakawa Publishing Science Fiction Novel Contest 2017
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永田希/Nozomi Nagata - がれきから未来を編む──災間に読むSF
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A Science Fiction Survival Guide to Doom and Destruction
/从瓦砾中编织未来──在灾难的间隔之间阅读科幻小说
土方正志/Masashi Hijikata
協賛/SUPPORT サントリー文化財団(2020年度)、一般財団法人窓研究所 WINDOW RESEARCH INSTITUTE(2019〜2021年度)、公益財団法人ユニオン造形財団(2022年度〜)