生環境構築史

第3号  特集:鉄の惑星・地球 Earth, the Iron Planet 铁之星球——地球

インタビュー:アナトリア──文明と鉄の関係の幕開け

大村幸弘【アナトリア考古学研究所】

Anatolia and the Origins of the Relationship between Iron and Civilization: An Interview with Sachihiro OmuraSachihiro Omura【Japanese Institute of Anatolian Archaeology】

访谈:安纳托利亚——文明与铁关系的拂晓

──大村が自身の著作で、永年のトルコでの発掘作業を支えた大恩人、としてあえて名を挙げたのが、ムスタファ・アービである。指導を受けた大学教授でも発掘費を工面したパトロンでもない。彼の右手となり発掘を補助し、地元労働者をまとめ続けた一般人だ。この一言に、氏の人柄や考え方、考古学という学問の性格まですべて含まれている気がした。そんな大村が、ひとつの遺跡にこだわり続け、ゼロから編んでいった人と鉄との出会いのはなしを語った。(特集担当:伊藤孝)


[2021.10.4 UPDATE]



Our lives today are inextricably dependent on iron. How did this intimate relation-ship between humanity and iron develop? To find out, we interviewed Dr. Sachihiro Omura, Director of the Japanese Institute of Anatolian Archaeology, which has been en-gaged for over three decades in archaeological excavations in Anatolia, Turkey, known as the birthplace of iron manufacture. His comments are summarized below.

■Excavation Site and Objectives
The primary site for our excavations is Kaman-Kalehöyük (hereinafter Kaman), located about 100 kilometers southeast of Ankara, the capital of Turkey. A major objective of our excavation and research is to construct a cultural chronology of this site. We are not fo-cused exclusively on iron and related artifacts. Put simply, our activities consist of very carefully removing layers of soil from the top down and recording everything about the history of the site that we can glean from what we find there. Through our efforts so far, we have identified four cultural strata (Stratum I: Ottoman and Byzantine Period; Stratum II: Iron Age; Stratum III: Middle and Late Bronze Ages; Stratum IV: Early Bronze Age). At present our excavations are progressing from Stratum IV to Stratum V.

The digging, which proceeds at a very slow and methodical pace of about 50 centimeters per year, has been unearthing over one million artifacts annually, which we wash, dry, and classify. Our findings include such diverse objects as earthenware, bronze ware, iron ware, and ivory seals. Moreover, Stratum III at Kaman yielded a grain storehouse large enough to hold enough grain to feed over 10,000 people, proof that this was a mighty civ-ilization indeed.

■The First Ironmaking in History
Until now it was generally believed that ironmaking began in the Hittite Empire between 1400 and 1200 BCE, and that the technology spread elsewhere with the collapse of that empire. However, our excavation of Stratum IV, the Early Bronze Age, has yielded iron-ware as well as iron fragments that prove the existence of iron manufacture over 1,000 years before the Hittite era. Moreover, the iron we found did not originate in the region later occupied by the Hittite Empire, but in an area to the north. This suggests that the Hit-tite region is not the birthplace of ironmaking; rather, the technology already existed in the north, and it is highly likely that the Hittites used that technology to make iron in this part of Anatolia.

One major riddle is how this iron was smelted. Iron smelting requires temperatures 300 to 400 degrees C hotter than are needed to smelt copper and tin to make bronze, so the technology is extremely sophisticated. It is especially difficult to build a furnace capable of smelting large quantities of iron. We are currently searching for remains of such fur-naces.

■Why Anatolia Became the Ancient Home of Ironmaking, and the Role of Iron in Human History
Anatolia’s abundance of fuel sources was a major factor in this development. Though Kaman today is an arid place, it was once covered with verdant forests. Maintaining a furnace at sufficiently high temperatures had to require considerable quantities of fuel, but that would have been readily available in the area at the time.

Additionally, some 4,000 years ago, traders from the culturally advanced kingdom of As-syria in resource-poor Mesopotamia came to Anatolia in search of copper, and built col-onies there. Written language was also brought to the region by the Assyrian traders. This exchange of resources, technology, and culture may have been a factor in Anatolia’s development into the birthplace of ironmaking.

From a long-term perspective, we might say that we are still in the Iron Age today. Iron promises to undergo yet further developments in the future as well. The launching of steel objects into space is part of that process. Steel is an indispensable ingredient for competition in space, so I have no doubt that iron will endure as an indestructible metal.

Archaeologists conduct scientific analysis of the artifacts they unearth, line them up and try to figure out what happened and why these objects evolved as they did. The creation of a cultural chronology of Kaman will be the fruit of precisely this sort of humble effort. Yet there is still much that we do not understand. Theories and hypotheses are the end result of this process, but they take time to emerge. So far we have only dug down to the level of about 4,400 years ago—roughly half of the historical record that lies buried at Kaman. It will take the next generation, or the one after that, to reach the level of the Neo-lithic. Only when we have dug down that far will we obtain something like an overview of the vast span of human history.





話者:
大村幸弘(考古学|アナトリア考古学研究所)
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司会:
伊藤孝(地質学・鉱床学・地学教育|茨城大学)
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参加者:
中谷礼仁(建築史・歴史工学|早稲田大学)
日埜直彦(建築家|日埜建築設計事務所)
松田法子(建築史・都市史|京都府立大学)
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協力:
吉田知子(アナトリア考古学研究所)
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テキスト作成:
贄川雪(編集者)






伊藤孝──これまで、製鉄技術は今から約3,400年前に現在のトルコ共和国で生みだされたと考えられてきました。しかし近年、さらに1,000年ほど古い層序から製鉄の痕跡が見つかり、人類と鉄の歴史に対する認識は大きく変わろうとしています。その根拠となりうる発見をしたのが、本日のゲストである大村幸弘先生が率いるアナトリア考古学研究所です。大村先生は何十年にもわたって発掘調査を続け、この世紀の発見にたどり着かれました。人類がいかにして鉄と出会い、それを利用しながら環境を築いてきたのか。それらは、私たちが生環境構築史を考える上で大きなヒントになると思います。今日はどうぞよろしくお願いします。

カマン・カレホユック遺跡と文化編年

大村幸弘──私が拠点としている「アナトリア考古学研究所」は「中近東文化センター」の附属機関で、1998年にトルコ共和国の中央に広がるアナトリア高原に設立されました。このアナトリア考古学研究所が主に発掘調査を行っているのが、「カマン・カレホユック遺跡」(以下、カマンと記載)です。アナトリア高原の中心部に位置し、トルコ共和国の首都アンカラから南東に100kmほど離れた場所にある直径280メートル、高さ16メートルの大きさの丘状の遺跡です。ここで私たちは1985年から調査を開始しました。



カマン・カレホユック遺跡の位置(Google Mapより)

カマン・カレホユック遺跡
©(公財)中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所/Japanese Institute of Anatolian Archaeology of MECCJ



発掘調査の大きな目的は、「文化編年」を構築することです。簡単にいえば、私たちは発掘を通して詳細な年表を作っているわけです。これまでの発掘調査で、4つの文化層を確認しました(第Ⅰ層=オスマン・トルコ時代、第II層=鉄器時代、第III層=中期・後期青銅器時代、第IV層=前期青銅器時代)。現在、発掘調査は第IV層から第V層に入るところに差しかかっています。今後の調査で、第V層として銅石器時代、第VI層として新石器時代が確認されてくることが見込まれています。つまり、少なくとも1万年近い文化が、ここに堆積していることになります。

カマン・カレホユックの文化編年模式図
©(公財)中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所/Japanese Institute of Anatolian Archaeology of MECCJ



発掘では、遺跡に発掘区を設置し掘り進めていきます。カマンの発掘区は、ひとつが10×10メートルほどの面積で、例えば北の発掘区には、それが35個ほど設置されています。その発掘区を、上から、毎年50~60センチくらいのスピードでゆっくり丁寧に掘り下げていくのです。そのなかで、年間100~150万点もの遺物が出土します。それらを洗浄・乾燥したのち、分類していきます。これまでに土器や青銅製品をはじめ、鉄製品や金製、銀製の装身具類、印影、水晶製、象牙の印章などが発見されています。



左:象牙製印章(紀元前1千年紀)
右:印章(古ヒッタイト時代)
©(公財)中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所/Japanese Institute of Anatolian Archaeology of MECCJ



金製耳飾り(前期青銅器時代)
©(公財)中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所/Japanese Institute of Anatolian Archaeology of MECCJ



また、出土してくるのは、こうした遺物だけではありません。カマンの第III層では、3,400年ほど前の直径15メートル、深さ5メートルほどの石組みの円形の遺構が見つかりました。これは、約3,000人分の食糧を収容していた穀物貯蔵庫だったことがわかっています。しかも、このような貯蔵庫が、同じ場所で大小5つも見つかりました。非常に強大な都市がここにあったことが裏づけられます。これはまさに、今日のお話の舞台となるヒッタイト帝国時代のものでした。


人類最初の製鉄と発掘調査の現在

大村──これまでの通説では、人類最初の製鉄は、鉄と軽戦車を武器に世界を支配したといわれるヒッタイト帝国(紀元前1400~同1200年)で始まり、帝国の滅亡とともにその技術が世界に広がった、というものでした。確かに紀元前1275年頃、ヒッタイトが鉄を生産し、鉄器と軽戦車でエジプト第19王朝のラムセス2世とシリアの覇権をめぐって戦争をしたということは、文献に記録が残っています。

ところが、私たちの発掘調査で、ヒッタイトの時代よりさらに1000年以上古い(紀元前2500~2250年)、前期青銅器時代の層(第IV層)から、鉄製品が出土しはじめたのです。加えて、出土した鉄の組成を解析したところ、それはアナトリアのものではなく、北方のものの可能性も出てきています。まだまだ最終ゴールに到達しているとは言えませんが。つまりこれまでの分析結果としては、おそらくヒッタイトが製鉄の発祥の地ではなく、それ以前にすでに北方で技術が確立していた可能性も考えられること、また、ヒッタイト帝国は、その製鉄技術を使って、ここアナトリアで鉄を本格的に生産していた可能性もあるとする仮説も生まれてくるわけです。それと一つ強調しておかなければならないことは、鉄製品が見つかった層序の直下からは木材を大量に使用した建築遺構が驚くほど幾つも見つかっていることです。木材を多用する建築遺構は、アナトリアではほとんど見つかっていません。そのような建築遺構はコーカサスを超えた北側に散見されていますので、鉄製品、そして製鉄技術もこの木材を多用する建築技術とともにアナトリアへ入ってきたのではないかとする仮説も出てくるわけです。これから先の発掘調査においても、このように通説とは矛盾するようなさまざまな発見がなされ、新しい仮説が生まれてくるのではないかと期待しています。



第IV層(前期青銅器時代の層)から出土した鉄の塊
©(公財)中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所/Japanese Institute of Anatolian Archaeology of MECCJ



当時の製鉄方法も、まだ具体的に解明されていません。実際に鉄器を生産していた炉や、それを加工していた工房などの遺構も未発見です。青銅を作っていた工房の遺構は発見されているので、そこから想像するしかないというのが現状です。おそらく鉄もほぼ同様の工程で作っていたと思われます。少なくとも、青銅の本格的な生産が可能になっている時点では、鉄も鉱物として存在は認識されていたでしょう。鉄はどこにでも存在する物質ですから、それに気づかず、一切触らなかったとは考えにくい。

やはり最大の謎は、鉄をどのように溶かしていたのかということですね。鉄を溶かすには、錫や銅を溶かして青銅を作るときより、さらに300~400度上げて、炉内の温度を1,000度以上にする必要があります。これは大変な技術を要します。少量であればなんとか作ることができるかもしれませんが、大量の鉄を溶かすために炉を1,000度に維持することは、とても難しい。

ここからは私の仮説です。当時の様子が記された「ボアズキョイ文書」に「鉄を作る時期ではない」という文言が書き残されています。それは言い換えれば、鉄を作る時期は決まっていたということになる。また、時期を選ぶということは、その時期の天候や環境を利用できる屋外で作っていたということも推測できます。おそらく、燃料を乾燥させるのに最適であり、強い季節風が吹く8月末~10月にかけての時期に製鉄が行われていたのでしょう。8月の同じ方向から吹き下ろしてくる風にはもの凄いものがあります。その風を製鉄に使わない手はない。他にも、カマンではありませんが、赤い川(クズルウルマク川)のほとりにあるビュクリュカレ遺跡の傾斜地で、鉄くずが大量に出土しています。これらの要素を重ね合わせた結果、都市からやや離れた場所に、季節風が斜面を勢いよく吹き上げるのを利用した「たたら」のような施設を作って製鉄をしていたのではないか、という仮説を立てました。青銅を作れるようになったのち、約600年の時間が経過してようやく、ヒッタイトは鉄の大量生産にこぎつけたのではないかと思います。今年の調査では、こうした傾斜地をもっと調査してみようと計画しています。そこから炭化物が発掘できれば、年代も推定することができます。

当時の鉄の原料が砂鉄なのか、鉄鉱石なのか、それらの産地がどこだったのかという点についても、現在、調査研究を進めています。カマンで出土した鉄を分析して、周辺の鉱山の鉄鉱石と比較していけば、産地の同定は容易にできる。オスマン帝国の時代のものから解析していき、それが北方のものと同質だとわかれば、私たちの仮説がさらに説得力を持つことになるでしょう。


アナトリアの人々とっての鉄の用途、その変遷

伊藤──アナトリアの人々は、鉄を何のために用いていたのでしょうか。また、その用途は、時代によって特徴があったり、変化したりしていますか。

大村──それは、一つは具体的な用途、もう一つは鉄の成分という、2つの点から特徴を指摘できると思います。初期は、多くが装身具でした。墓から副葬品として出土しているので、やはり貴重なものだったということがうかがえます。原料を調べると、そのほとんどが隕鉄で、それ以外は、まだまだ製鉄したとは言いがたい、熱を少し加えて鍛造した程度の粗い鉄でした。アナトリアのほうが、エジプト以上に隕鉄を使っていた可能性が高いと言えます。ツタンカーメンの墓で発見された短剣も隕鉄でしたが、それよりも約1,000年も古い時代の短剣がアナトリアで見つかっていて、それも隕鉄で作られていました。

カマンでは槍や矢先といった武器がいくつか出土していて、ヒッタイトの時代になると、ナイフや斧といった、本格的な武器も見つかっています。これらは、ただ叩いただけでは作ることはできません。確実に溶かして成形していたはずです。

ヒッタイトの時代が終わって50~100年後になると、鉄の農耕用具が出土してくるようになります。用途の変遷を総括すれば、鉄が貴重だった初期は、やはり高貴な人間たちの装身具として用いられ、その後大量生産ができるようになっていく中で、次第に庶民のための農耕用具にも使用されるようになった、ということでしょう。しかし、とっくに鉄を大量生産することに成功していたはずのヒッタイトで、なぜ鉄の農耕用具がまったく出土しないのか、という疑問も残ります。これについては、おそらく鍛治師と製鉄技術が帝国によって完全に囲い込まれていたのではないか、と推測できます。それが帝国の崩壊後にバラバラに周囲に散って、鉄の時代が瞬く間に世界に広がったのではないかと考えています。



鉄器(IIIb層出土、古ヒッタイト時代)
©(公財)中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所/Japanese Institute of Anatolian Archaeology of MECCJ



まとめると、おそらく最初に使用したのは青銅で、その後隕鉄から製品を作ることができるようになり、その過程で、鉱山から運んできた鉄鉱石から鉄を作る努力を続けていく。最初は貴重で使い方も限定されていたけれど、最終的には鉄を大量生産することができるようになった。その過程でたたらのような施設を郊外に作っていた。それがヒッタイト帝国を500年も維持させる一つの原動力になったのではないかと思います。


アナトリアの製鉄という視点から人類史をどのように捉えることが可能か

伊藤──今のお話の中にもありましたが、鉄鉱石や森林などの資源、高温の炉を成立させる技術的な背景や湿度・風などの気象条件、もしくは文明の拮抗や人類の移動・交雑など、製鉄技術の成立にはさまざまな要素が必要だと思います。アナトリアが世界で最初の製鉄の中心地になりえたのは、どんな条件が大きかったためだと考えられますか。

大村──鉄が豊富な地質だったことに加え、燃料資源も豊富だったことは、大きく影響したと思います。現在のカマンは荒涼としていますが、当時のヒッタイト帝国には、かなり鬱蒼とした森があったようです。それは花粉分析の研究者も証明しています。高温の炉を維持するためには相当量の燃料を必要としたと思いますが、それを確保することは容易だったものと思われます。メソポタミアやエジプトなど、アナトリア周辺の地域も、おそらく金属加工技術は持っていたと思われますが、メソポタミアやエジプトは、そもそも地質的に鉄が少なく、またメソポタミアには燃料とする木も少なかった。こうした環境の違いが、鉄の覇権に影響を与えていると思います。

また4,000年前に、高度な文化を持ったアッシリア商人が、アナトリアの銅を求めて、資源の少ないメソポタミアからこの地にやって来て居留区を作りました。そこで金・銀を集めて、メソポタミアに運ぶ。反対に、彼らは青銅を作るのに必要になる大量の錫を、メソポタミアから運んできています。そうした交易のおかげで、アナトリアは一気に青銅器時代に入ったと言われています。居留区ができたのが4,000年前と言われていますが、カマンを調査していると、4,100年~4,150年前には、アッシリアの商品が入ってきていたことがわかっています。具体例を挙げると、彼らが使っていたロクロ製の土器などが残っていますね。つまり、ロクロ技術もアッシリア商人たちが伝えたものの一つだった。カマンのこの調査結果には、歴史を語る上ではとても説明しやすい因果関係が、明確に現れています。こうした資源や技術、文化の交流も、アナトリアを人類最初の製鉄の地に導いた要因かもしれません。

伊藤──遺跡を発掘し、一つひとつ文化編年を編んでいくという営みは、繰り返す文明の誕生・盛衰を逆にたどっていく作業のように見えます。何枚もの文化層をご覧になった大村先生の目には、アナトリアにおける文明の誕生・盛衰はどのように映っていますか。

大村──文化編年を組み立てていく上で、私は大火災層にポイントを置いて調査しています。ヒッタイト帝国も、最後は火災によって滅び、アッシリア商人の経済活動も火災をきっかけに終わります。このように、歴史上、文明が変化するその多くの層の中に、大規模な火災の跡があるのです。考古学とは、まさに現場検証なんですね。

しかし、それ以上に大切なのは、火災になって崩壊する少なくとも100年以上前から崩壊まで、何がどのように起きているのかを出土遺物を通して丁寧に観察していくことです。強大な力をもった帝国や文明が終わっていくには、必ず理由があります。焼けたところだけを見て、異民族が流入して焼き討ちされて滅亡した、というのは非常に安易です。最後に火災によって一瞬のうちに滅びるというのは、既に文明や都市が弱体化していた証左でもあるのです。火災はあくまで最後の一押しに過ぎません。遺物は答えを簡単に言わないのですが、それを年代に沿って並べていくと、答えが少しずつ出てくるのです。帝国を攻める側も、価値のない場所を攻めることはないし、攻めどころのない時期に攻めたりもしません。大切なのは、そのポイントをつかむことですね。

伊藤──一般的に見ても、人類史の上で鉄が果たした役割が他の物質と比較して大きいと考えられています。大村先生は「人類史における鉄の役割」はどのように総括できるとお考えですか。

大村──長い目で見れば、現在もまだ鉄器時代の流れの中にあります。これからも、鉄はまだまだ続いていくと思います。その変化の過程で、鉄器は宇宙にまで飛び出している。宇宙空間の争奪戦の中でも鉄は不可欠であり、不滅の金属として残っていくのだと思いますが、ただ、人類は鉄の次の物質を見つけ出すのかもしれませんね。それが一体どのようなものなのか、考えただけでも興奮してしまいます。

歴史を考えていく上で、素材の発見や発明が、大きく時代を変える瞬間があります。それは石であり、銅であり、青銅であり、鉄であった。それが変化する節目には、帝国間の勢力のみならず、庶民の居住形態をはじめとするあらゆるものが、大きく変わっているんです。これは積み重なっている層序を見ていると、明らかにそう感じます。鉄によってヒッタイトは世界の中心となり、大きな力を握りましたが、それを手放した瞬間に、帝国は一瞬で終焉を迎え、歴史から消えていく。それくらい、物質の変化は世界を大きく変える力を持っているのだと思います。

現在では、世界中に鉄が広まって画一化しています。そこから次に何が出てくるかは、今後の人類にとって、当然ながらものすごく大きなポイントになるでしょう。例えばまだ見たことのない物質なのか。かつて、鉄は間違いなく現代の核と同様の存在だったと思われますが、核は現在アメリカ、ロシア、中国など複数の大国が所有し、すでに平均化されてしまっています。核に関する情報も共有されているので、それを作ることもそれほど難しいことではない。そう考えますと、現在は次のステップが踏み出される段階なのかなとも思います。歴史を見る限り、人類は次の何かを確実に考えだすと思います。

中谷礼仁──大村先生がおっしゃったとおり、人類は今も製鉄に大きく依存しながら環境を構築しています。鉄が都市を形づくっているという現在の世界の構造は、アナトリアの時代から連続しているものだと考えていますか。もしくはどこかに飛躍があったと捉えていますか。

大村──私は、アナトリアから現代まで、鉄が鍵となる世界の構造が連続しているのだと思っています。私は考古学者なので、層序を見て、建物の作り方や町の構造を見ていきます。アナトリアもしくはメソポタミアで生まれた技術が、ドナウ川を伝ってヨーロッパのゲルマンに流れ、そして次にアングロサクソンに流れていく。さらにアングロサクソンからアメリカへと流れ、第二次大戦後は日本にまで伝わってきた。町の構造にしても時代も超えながら連綿と続いていると思います。製鉄の技術にしても西から東へと連綿と流れて行ったのだと思います。その技術の発祥の地がトルコかなのかはまだ調査中でわかりませんが、少なくとも現状では、アナトリアでこんな現象が起きた可能性が高いということまでは言えるし、それが現在にまで続く大きな事件だったのではないか、という仮説のもとで調査を進めていますね。

例えば、産業革命は18世紀のイギリスで起こり、この時も鉄の生産量が飛躍的に増えます。これも地続きだと言ってよいのではないでしょうか。つまり、もっと昔の時代にアナトリアの人々が最初の製鉄を行ったことは、第一期の産業革命であったと捉えることもできる。それも、高熱を上げる技術をヒッタイトが獲得したことで、歴史を大きく変えることに深く結び付いたのではないかと考えています。その結果、その技術をめぐって、ヒッタイト帝国を中心に世界が動き出す。この技術が世界中に伝播していったん均一化するものの、およそ300年ほど前に鉄生産はヨーロッパを中心に再び大変革を成し遂げる。大量生産が行われるようになり、それを背景にゲルマン、アングロサクソンが世界を席巻していくし、世界の構造を大きく揺るがしたのだ、と思いますね。だから私は、最初の製鉄で、どのように鉄を溶かしたのか、に大きな関心があるのです。どのようにして効率の良いエネルギーを得たのかは、18世紀の産業革命と同様に大きな鍵になると思うわけです。

中谷──最後に、歴史の認識のしかたについてお尋ねします。この数年、人文系界隈では、新しい地質年代区分として「人新世」という言葉が流行しています。簡単にいえば、人間の活動の痕跡を、地層年代として捉えていこうとする流れです。しかし、この区分の端緒をどこにするかは意見が分かれ、農耕の開始とする見方もあれば、産業革命の開始という見方もあるというくらい、大きな幅があるのが現状です。長年、発掘調査による現場検証や、発掘品の解析という科学的な実証から文化編年を考えてこられた大村先生からは、この人新世という時代の捉え方はどのように見えていますか。

大村──人新世については、考古学から見ればそれほど新鮮味のある用語ではありません。地質年代区分として使われていると思いますが、私は少しずつ掘り下げて作り上げている「文化編年」を通して歴史の流れを考察することを一つの基本としていますので、その流れの中で人新世を捉えることができるでしょうが、私が歴史の転換点などを見極めるにはやはり異常なほど基礎資料を丁寧に取り上げ、それらを並べてみて彼らの方から私に語りかけてくるまで徹底的に時間をかけて対面する以外ありません。何かそのようなことばかり半世紀以上かけて行ってきた私としては、そのあとで人新世を考えてみたいと思います。今の私は何も言えないというのが正直なところです。私も常にいろいろな仮説を考えるし、その中でこれではないか、と思うものをつい言ってみたくなることもあります。しかし、やはり私は考古学者なので、自分で見たもの、自分で発掘した資料を整理しないことには、気軽には何も言えなくなってしまいます。何が人類史において大きな出来事だったかなんて、その背景を探るには机上で論理を並べてもどうしようもないかと思うことがたびたびです。その点では、私の考古学は超古典的な手法を基本にしているのかもしれません。

考古学では、発掘した出土品を科学的に調べ、それらを並べて変化を見ながら、その文化に何が起こったのか、どうしてその変化が起きたのかを考えていきます。もちろん、それは簡単に見えるようなものではなく、数千年分を並べて見ていくことで、ようやく少しずつ見えてくるものです。カマンでの文化編年の構築は、そうした地道な作業を続け、長年悩み試行錯誤しながらやってきただけです。それでも、まだまだわからないことがたくさんある。理屈や仮説というのは、そうやってようやく言えるようになるものだと、最近は考えるようになりました。私は約4,400年前の層までしか発掘していませんが、私の次の世代、あるいはさらに次の世代で、ようやく新石器時代の層の発掘が終わることになります。そこまで発掘が終わって初めて、人類がこれまでどんな歩みをしてきたのかが見えてくるようになるのではないでしょうか。



[2021年5月12日、Zoomにて収録]



おおむら・さちひろ
1946年生まれ。(公財)中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所所長。カマン・カレホユック遺跡発掘調査隊長。考古学者。主な著書として『アナトリアの風 考古学と国際貢献』(リトン、2018)、『アナトリア発掘記-カマン・カレホユック遺跡の二十年』(日本放送出版協会、 2004)、『鉄を生みだした帝国-ヒッタイト発掘』(日本放送出版協会、1981)がある。第3回講談社ノンフィクション賞、第2回パピルス賞受賞。



3号の読み方:鉄はいつでもそこにある
How to read No. 3: Iron is always there
/阅读指南:从未缺席的铁
伊藤孝/Takashi Ito
インタビュー:アナトリア──文明と鉄の関係の幕開け
Anatolia and the Origins of the Relationship between Iron and Civilization: An Interview with Sachihiro Omura
/访谈:安纳托利亚——文明与铁关系的拂晓
大村幸弘/Sachihiro Omura
鉄と生命──鉄はなぜ生命に選ばれたのか
Role of Iron in Life: A Review
/铁与生命——铁为什么选择了生命
高萩航+北台紀夫/Wataru Takahagi+Norio Kitadai
鋼の構築様式
Steel and the Origin of Building Mode 3
/钢铁的构筑方式
中谷礼仁(文)+松田法子(図)/Norihito Nakatani+Noriko Matsuda
鉄に依存した赤血球による酸素輸送と人工赤血球
Iron-Dependent Oxygen Transport by Red Blood Cells and Artificial Red Blood Cells
/依赖于铁的红细胞运氧和人工红细胞
酒井宏水/Hiromi Sakai
インタビュー:鉄・生命・メタ生物圏
Interview: Iron, Life, and the Metabiosphere
/采访:铁・生命・元生物圈
長沼毅/Takeshi Naganuma

協賛/SUPPORT サントリー文化財団(2020年度)、一般財団法人窓研究所 WINDOW RESEARCH INSTITUTE(2019〜2021年度)、公益財団法人ユニオン造形財団(2022年度〜)