生環境構築史

連載

鏡の日本列島4:芭蕉と歩く「改造」後の日本列島

伊藤孝【編集同人】

Mirrored Japan 04: The “remodeling” of the Japanese archipelago and its expression in the works of BashoTakashi Ito【HBH Editor】

镜中的日本列岛-4:与松尾芭蕉同游“改造”之后的日本列岛

Here I consider the state of “large civil engineering works” especially in northeast Japan after the Japanese archipelago left the Eurasian continent and reached its current position (ca. 15 million years ago). The situation is such that it can be called a “remodeling of the Japanese archipelago.” After separating from the continent and reached its present position, northeast Japan was almost submerged in the sea. The sea was gradually reclaimed by submarine volcanic ejecta and sediments rich in siliceous plankton. Eventually, due to changes in the tectonic mode, compression from the east and west became stronger in northeast Japan, where higher areas became higher and lower areas became lower, and the unevenness of the topography became conspicuous. A new volcanic front was then formed on the thickened archipelago. Since about 7,000 years ago, coastal plains started to form under the condition of continuously high sea levels.

It is interesting to consider the results of this “large civil engineering work” through the works of Basho, specifically “Oku no Hosomichi” (The Narrow Road to the Deep North). About 300 years ago, Basho walked mainly on alluvial plains, structural basins, and Neogene pyroclastic materials, leaving many famous phrases. Most of the landscapes that he depicted were made of the strata and rocks reclaimed after northeastern Japan moved from the Eurasian continent to its current location. On the other hand, after the completion of the first draft of “Oku no Hosomichi,” Basho spent five years revising it, immersing himself in a landscape composed of Mesozoic rocks formed when the archipelago was part of the eastern edge of the Eurasian continent.


[2022.5.6 UPDATE]

はじめに

田中角栄の「日本列島改造論」は、現在、どのように総括されているのだろうか。私は世代的に、その名称は聞いていたはずであるが、当時の記憶はまったくない。のちに、金も人も大都市圏へ集中することによる都市圏・地方それぞれの弊害や公害問題、それらを一挙に解決するということがモチベーションになっていたと知る。一方で、投機的な土地の買い占め等々、当初の動機とは異なる弊害も多数生んだということも学んだ。

平らな土地さえあれば、次の日からそこに人が集い暮らせるわけではない。ローマ軍が土木工事を重視していたこと、また家康が江戸の発展を見据えて、河川改修、海岸の埋め立て、水道工事から手を付けはじめたことはよく知られている。たとえ平らな土地であっても、当然のことながら、まず安全を確保し、さらにインフラの整備が必要なのだ。

手つかずの真っ新な日本列島が目の前にあるとして、われわれは何から手をつければよいのだろうか。また、どのようなグランドデザインに基づく開発が適切なのだろうか。 それらを構想するためには、まずこれまで天然・自然が「どんな土木工事を行ってきたのか」を知る必要がある、と考えてしまうのが、少しでも地質学を学んだものの常である。

日本列島は地域ごとに個性があり、それぞれ特徴的な履歴を有するが、今回は筆者の生活の場であり馴染みがある東北日本を中心に述べることにした。17世紀の末、芭蕉は曾良とともに、この東北日本を一気に駆け抜けた。約300年前、というと通常の感覚では「はるか昔」であるが、地質学的な時間スケールでいうとほんの一瞬である。プレート運動の方向・速度等はもちろん、基本的には、芭蕉もわれわれも同じ地球科学的な制約を受け、同じような岩石・地層が形づくる景観のなかで暮らしていることになる。芭蕉は関西で生まれ育った西の人だが、はじめて訪れる東北日本でどのような景色に心を動かされたのだろうか。今回は、芭蕉が歩いた道に沿って天然・自然の「土木工事」の様子を見てみたい★1。

芭蕉が歩いた道

日本列島がユーラシア大陸からの分離を終え、ほぼ現在の位置に配置された時期から話を進めたい。およそ1,500万年前のこと。この時期の東北日本は今現在の様子とまったく異なり広範囲で水没していたことわかっている★2[fig. 1]。東北日本で大きな陸といえるのは、現在の北上山地、阿武隈山地である。


fig.1──大陸から離れ現在の位置に移動した直後の日本列島の様子。米倉ほか編(2001)★2から引用。「おくのほそ道」のルート(赤点)は、Google My Map「奥の細道」を参照し、筆者が追記。



この図に芭蕉が「おくのほそ道」の旅で曾良と歩いたルートを重ねてみた。多くの行程が、当時は海であったことがわかる。もしこの旅が300年前ではなく、1,500万年前になされていたなら、芭蕉はほとんど船上の人となっていたわけだ。「おくのほそ道」に納められた多くが海の絶景を詠んだ句、もしくは酔いの苦しみの句になっていたかもしれない。

ただふざけているわけでなく、これは重要な意味をもっているように思われる。すなわち芭蕉は、1,500万年前は海であり、それ以降、徐々に陸になっていった景色に魅了され、それを一歩一歩踏みしめたことになる。

芭蕉が生を受け、29歳まで過ごした現在の三重県の伊賀上野は盆地であり、それを縁取る山々は大陸の一部を構成していた古い花崗岩質の岩石や変成岩類からなる[fig. 2]。いわば前半生は大陸的な岩石がかたちづくる景観に身を置いていたわけだ。そして、江戸へ出たのち、40歳を過ぎたあたりからいくつかの旅に出るが、句作の集大成として選んだのが、奥羽・北陸への旅である。もちろん芭蕉は、尊敬し憧れる西行と同じ景色を見る、歌枕を訪ねる、さらには仙台藩の状況を探るということがこの地を選んだ理由であり、地質学的な背景を考慮していたわけではない。しかし、実際に歩いてみた結果、彼を魅了したのは1,500万年前には海で、それ以降、陸になった「若い」景観であったのだ★3[fig. 3]。このfig.3を見ると、多くの句が、日本列島が大陸から分離しはじめてから形成された岩石・地層がつくる場で詠まれたことがわかる。子どもの頃、陽が昇り沈む山の連なりを形づくっていたような、古い岩石が醸し出す景色にはあまり反応しなかった★4。


fig.2──芭蕉の生家付近の地質(日本シームレス地質図V2を3D表示。背景地図は陰影図)。彼は花崗閃緑岩や泥質片麻岩がつくる山に囲まれた盆地で生まれ育ち、29歳まで暮らした。




fig.3──「おくのほそ道」地質年表。「おくのほそ道」の旅で芭蕉が歩いたルートの主な岩石・地層の形成年代と代表的な句を示す(句の表記は、松尾芭蕉、潁原退蔵+尾形仂訳注『新版おくのほそ道──現代語訳/曾良随行日記付き』(角川ソフィア文庫、2003) 381頁に拠った)。ここでは清川昌一+伊藤孝+池原実+尾上哲治『地球全史スーパー年表』(岩波書店、2014、24頁)的に表現してみた。岩石・地層の形成年代は産総研の日本シームレス地質図V2を参照。ある場所が複数の岩石・地層からなる場合は、芭蕉が訪れた地点、もしくは宿で代表させた。施設名の場合はそれが建っている土地の岩石・地層の意。ちなみに、示したのは岩石・地層の形成年代であり、その地形ができた年代ではないことに注意。なお、それぞれの岩石・地層の年代幅を示す黒線の下に複数の句が書かれているが、句の前後関係に時代的な意味はない。



埋め立てられる東北日本

さて、西暦1689年当時、芭蕉を魅了した風景は、どのような岩石・地層をもとにしたものだったのだろうか。fig. 4は約1,500万年前の東北日本の鳥瞰図・鯨瞰図である★5。これは地層に含まれる底生有孔虫という小さな化石を手掛かりに復元されたものだ。種ごとに好みの棲息水深があるので、それをもとに過去の水深(古水深)が復元できる。東の端には、現在と同様に北上山地が分布しているが、そこから西へ少し進むと様相が一変する。水深2,000mに迫る南北に延びる海があり、海底では活発な火山活動が見られる。さらに西に進み高まりを越えると再び南北に延びる深い海がある。こちらは海底火山がほとんどない静かな海だ。

fig. 4──大陸から離れ現在の位置に移動した直後の東北日本の様子(北里洋「底生有孔虫からみた東北日本孤の古地理」(『科学』55、1985、532-540頁)。黒点が黒鉱鉱床,星印がマンガン鉱床、白抜き丸が石油鉱床の生成場を示す。現在、脊梁山脈があるところが、水深2,000m級の深い海であったことに注目。



現在の様子と比較すると、一致しているのは北上山地のみ。中央の深い海は、東北日本を背骨のように中央を走る奥羽山脈やその周辺の盆地に相当していることがわかる。当時深かった溝が現在は高い山脈になっているわけだ。この巨大な深みの埋め立てを主に担ったのは、海底の火山から噴出した火山砕屑物や火山岩である。

また西側の深い海は、現在の日本海に面した南北に連なる海岸平野の位置に相当している。この海を埋め立てたものは、先と同様の火山砕屑物や火山岩も含まれるが、基本的には周辺の岩石が砕かれたできた泥・砂・レキと、当時の海に大量発生した珪藻の殻である。fig. 5に示した地質図では、これら水没していた東北日本が埋め立てられた時代の堆積物、火山噴出物はまとめて黄土色で示されている。必然的に東北日本は、黄土色で塗られた箇所が広くなる。


fig.5──東北日本の地質と「おくのほそ道」の旅の行程(地質図Naviの1/500万アジア地質図上にGoogle My Map「奥の細道」による「おくのほそ道」のルートを表示)。この図で、芭蕉が歩いた経路のほとんどが白色で表現された第四紀の地質、黄土色で示された新第三紀の地質からなることがわかる。



そのようなわけで、東北日本の中央部分付近には、火山から発泡しながら噴出した火山砕屑物が溜まってできた地層が多数分布している。見かけは、小さな孔が無数にあいていることが多い。この種の岩石は一般にもろく、ハンマーで叩いても、ボフッ、ボフッ、とひどく不景気な音しかしない★6。一方、芭蕉は、そういう孔だらけで脆い岩石に囲まれた空間での音のくぐもりを鋭くとらえ、「岩にしみ入る」という素人にもわかるかっこいい表現にまで到達してしまった★7。

メリハリがつく東北日本

アフリカで人類(ホモ属)が誕生する少し前のこと、300万年前に日本列島では異変が起こる。1,000万年以上の長きにわたり、埋め立て作業が継続していた東北日本の状況が変化し、東西に圧縮される場となったのだ。フィリピン海プレートの移動方向が変化したことが影響し、太平洋プレートの沈み込みの場所が西へ移動し始めたというのが、最近人気の説である[fig. 6]。別な言い方をすれば、日本海溝が西へと移動を開始したのだ。これにより、細長い海を埋め立てながら徐々に平らになってきた東北日本は変形しはじめ、断層のズレやしゅう曲などをつくりながら、メリハリが効いた、凹凸のはっきりした列島になっていく。具体的には、現在の位置に移動したあとに海を埋め立てた地層や岩石が、さらには日本列島が大陸から切り離され移動するあいだに海に貯められた地層や岩石までもが一部せり上がり、高まりをつくっていく。やがてそれは高いところはより高く、低いところはより低く、という運動につながっていく[fig. 7]。その高まりが現在の奥羽山脈や出羽山地だ。一方、「出る杭は打たれる」の格言同様、高いところ(山脈)は雨風の影響が大きく、侵食が激しいので削られる速度も大きい。高くなることと削られることのせめぎ合いである。削られたものは、低くなっていくところに溜まっていく。盆地や海岸平野の起源である。こちらのほうは、低くなることと埋められることがせめぎ合う。この東西からの圧縮は現在も続き、列島にメリハリを付けようとする活動はいまだ健在である。盆地や平野の縁に活断層が分布しているのはそのためだ[fig. 8]。


fig.6──プレート運動方向の変化と日本列島にかかるストレス。巽好幸先生の2020年7月11日ツイートからの引用。




fig.7──日本列島の代表的な山地の成長曲線(a)と盆地の沈降曲線(b)★2




fig.8──尾花沢盆地・新庄盆地から庄内平野にかけての活断層の分布(地質図Naviで赤色立体地図上に活断層データを表示)。この図で赤い線が活断層の位置を示す。芭蕉ゆかりの地名を著者が追記。



また、プレートの沈み込む位置と沈み込む角度の変化によって火山フロントの位置が再配置される。現在の東北日本でいえば、奥羽山脈に位置する。そこでは、東から沈み込んだプレートの上面が深さ100kmに達し、沈み込んだプレートから放出された水に起因してマントルの一部が溶けマグマが生ずる。このマグマが地表に達したものが火山であり、海溝から見て最初の活火山の列が火山フロント(火山前線)となる。プレートは文字通り板として沈み込んでいるので、深さ100kmに到達した部分は、地上には連続した線として投影される。

結果、300万年前以降は、東西に圧縮され厚みを増した土台の上に活火山が列をなすことになった。fig. 9Aでいえば茶色の部分が噴出した溶岩だ。東北日本ではそれが南北に連なっていることがわかる。海抜0mから始まるといってよい富士山などと比べて、奥羽山脈上に並ぶ、岩手山、栗駒山、那須岳などの活火山が、かなり上げ底された火山といわれるのはそのせいである。 「おくのほそ道」の旅で、芭蕉は日本海側へ抜ける途中、当然、この火山フロントを横切らざるをえなかったわけだが、そのあたりの体験はあまり愉快なものではなかったようだ。彼は、寝床でノミやシラミに悩まされ、かつ耳元で馬の小便の大音量を聞かされることになる★8。


fig.9──東北日本に分布する第四紀火山(日本シームレス地質図V2で陰影図上に第四紀の火山噴出物のみ表記)。Aは脊梁山脈上の焼石岳と栗駒山、Bは出羽山地上の月山を示すが、いずれも構造的に形成された高まりの上に形成された火山であることがわかる。ここで示したなかでは、栗駒山が活火山に分類されている。



つぎの尾花沢に10日間滞在し完全にリフレッシュしたのち、当初予定していなかった山寺へと向かう。そこで先に紹介した多孔質の火山性の岩石に囲まれた空間での音のくぐもりを鋭敏に捉え、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を得る★9。

さて、新庄盆地から日本海に面した庄内平野へ出るためには出羽山地を越えねばならない[fig. 10]。現在はJR陸羽西線や国道47号線が通っているが、当時は川下りが唯一のルートだった★10。本合海で小鵜飼船に乗船した芭蕉は古口で船を乗り換え、新庄領を出る手続きをした。そこから本格的な出羽山地越えである。現在は、最上峡とも称され、紅葉の名所としても名高い。ちょうど芭蕉と曾良が「おくのほそ道」の旅をした時代につくられたとされる『最上川川通絵図』(寛文8〜寛保2年)には、芭蕉が乗船した区間に、出船瀬、滝とり瀬、外川の瀬、猿田瀬、成沢瀬など固有名詞が付けられた難所の存在が記されている★11。この旅の初日、深川から小舟で出発した芭蕉であるが、ここ激流では「水みなぎって舟あやうし」と翻弄され、その経験が「五月雨を集めて早し最上川」を生んだ★12。


fig.10──出羽山地を横切る最上川(地理院地図でシームレス地質図を表示。背景は陰影起伏図。地名・岩石名は著者が追記)。元禄2年6月3日、芭蕉は小鵜飼船に乗って本合海より清川まで最上川を下った。珪質泥岩をうがって流れている様子がよくわかる。



最上川は、すでに約500万年前には、現在とほぼ同じところを流れていたらしい★13[fig. 11a]。ただその当時はまだ出羽山地はきわだっておらず緩やかな地形が広がっていたようだ(守屋ほか、2008)。最上川もさほど「集めて早し」ではなかったろう。その後、メリハリがつく変動のあおりを受け、南北からの出羽山地の隆起と最上川による侵食のしのぎ合いの結果として谷は深くなり[figs. 11b、11c]誕生したのが、芭蕉も下った最上峡である。ちょうどこの切り立った崖が両岸に連なる部分は、先に紹介した珪藻をたっぷりと含んだ珪質泥岩からなる[fig. 10]。海を埋め立てた地層が、約300万年前に始まった東北日本の東西圧縮のため隆起し、現在の景観をつくったことになる。


fig.11──出羽山地の隆起史★13。約500万年前以降、徐々に出羽山地が隆起し、それにともない堆積盆も狭まってきたことがわかる。



再び7,000年間の僥倖

嵐山光三郎は、「おくのほそ道」の旅の最大の目的地は出羽三山であったと結論づけている★14。しかし、出羽三山の一つ月山[figs. 8、9B]の山頂を極め、これまでの人生での最大の標高に達したあと★15、つぎに訪れた象潟でも芭蕉は大いに楽しんでいる。「はじめに」で、「芭蕉もわれわれも同じような岩石・地層が形づくる景観のなかで暮らしている」と書いたが、この象潟では少々事情が異なる。芭蕉が訪れた当時の象潟は、海と繋がる潟湖に「九十九島」と呼ばれる無数の小さな島々が配置された景観が広がっていた。「おくのほそ道」で、象潟が松島と対をなして表現されるゆえんである。芭蕉が訪れてから約100年後、象潟地震により隆起し、現在「九十九島」は水田に浮かぶ島々となっている[fig. 12A]。


fig.12──日本海側に発達する海岸平野の地形(地理院地図の自分でつくる色別標高図)。Aは秋田県の象潟。芭蕉が訪れたときは、過去の鳥海山の山体崩壊によって生じた無数の流れ山が「古象潟湖」から顔をのぞかせ「九十九島」といわれる無数の小さな島を作っていた。現在は隆起して古象潟湖は水田になっているが、「自分でつくる色別標高図」を活用することで当時の姿を忍ぶことができる。Bは新潟平野に発達する砂丘列。この自然の造形美も、そのときの芭蕉には響かなかったのだろうか。



その象潟を出たあとの芭蕉の足は速い。潁原退蔵・尾形仂による「おくのほそ道」の本文評釈でも「象潟のピークを過ぎて、紀行の本文はにわかに終わりへ向けて筆を急ぐ“草(そう)”の気配を帯びてくる。」とまとめられている★16。日本海側の平野が平らで歩きやすかったのか、と思い、一日当たりの移動距離を見てみたら、そういうわけではない[fig. 13:谷釜(2021)★17の表1より作成]。 この旅を通してほとんど同じようなペースで歩いていることがわかる。急いでいるように感じるのは、「おくのほそ道」の記述からの印象だろう。旅の前半では一日ずつ丹念な記述がなされていたことと対照的に、越後路の項では「この間九日」とざっくりとまとめた表現も出てくる。


fig.13──「おくのほそ道」の旅における芭蕉の一日あたりの歩行距離★17の表1をもとに作成。便宜的に逗留中の歩行距離は0としている。また、4泊以上の逗留地の地名、一日あたりの歩行距離が40kmを越えた日には移動区間名を記した。



さて、越後路以降、芭蕉はどのような土地を歩いたのであろうか。一般的な地形の成り立ちについて乱暴なまとめをすると、海水面より上では雨風によって侵食の場となり、海水面の下ではものが溜まる堆積の場となる。海水面がひとつの基準となるわけだ。この連載で強調しているように、過去7,000年間はほとんど海水準が変化しなかった特異な時代、ということで特徴づけられる。基準面が長期間動かず固定されていたのだ。その結果、基準面付近の土地がどんどんと拡大されていく[fig. 14]。例えば、芭蕉がこの旅で歩いた日本海側に発達した海岸平野で最大の広さを有する新潟平野も、固定された海水面を基準に、信濃川などが運び出す土砂で徐々に埋め立てられたものだ[fig. 15]。それに続く富山平野は、北アルプスからの土砂の供給量が膨大であり、かつ富山湾が深く急傾斜であるため広い平野は発達せず扇状地がそのまま海に没している。


fig.14──中川・東京低地における沖積平野が発達する様子(遠藤邦彦+石綿しげ子+堀伸三郎+中尾有利子「東京低地と沖積層」『地学雑誌』122(6)、2013、968-991頁)。海面付近の土地が徐々に拡大していったことが読み取れる。




fig.15──約6000年前の新潟平野の様子。貝塚爽平+成瀬洋+太田陽子『日本の自然〈4〉日本の平野と海岸』(岩波書店、1985)236頁の図を一部修正し引用。信濃川が運んできた大量の土砂により南から北へ平野がつくられていった。



芭蕉は、不思議とこれら新潟平野や富山平野ではあまり心が揺さぶられていないように見える。新潟平野に発達する規則正しく列をなす砂丘列[fig. 12B]の句や、twitterのタイムラインに現れる度に口があんぐりとなる富山の扇状地と山脈の大パノラマ★18の句などは残していない。視点は大地ではなくもっと上、月、彦星と乙姫、天の川など宇宙を向いている気がする。それもこれも羽黒山や月山であまりにも荘厳な月を見てしまったからだろうか。さらに歩みを西へ進めるほどにテーマは空間から時間へと変化し、季節の移ろい、秋の色が濃くなっていく。

まとめ

ここでは、日本列島、とくに東北日本がユーラシア大陸から離れ、現在の位置に到達してからの「大土木工事」の様子を描いてみた。その様子はまさに「日本列島改造」と称するに相応しい。大陸から切り離され、現在の位置で水没しかけていた東北日本。海底火山の噴出物、泥・砂・レキなどの砕屑物、また海のプランクトンの力も借りて徐々に海を埋め立てていった。やがて、東西の圧縮が強くなり、高いところはより高く、低いところはより低くなり、凹凸がつきだした。そして、厚くなった列島上に新たに火山の列がつくられ、海沿いには海岸平野が発達していく。そのような履歴を持つため、東北日本では、海を埋め立てた岩石・地層、またそれら土台の上に発達する平野・盆地という土地のなりたちをもつ場所が多くを占める。その結果がfig.5に示された一面の黄土色とその上に塗られた白である。

人間の活動の多くは平野や盆地を中心に営まれ、結果として道もそれらをつなぐように発達していく。芭蕉が訪れ、宿とした場所もどうしてもそのような場所が多くなる[figs. 3、13]。 結局、芭蕉は大海原の船上の人となる必要はなく、平野から旅立ち、台地の上を踏みしめ、山間の盆地に立ち入り、時々、新しい火山を極めつつ、基本的には1,500万年前以降に陸となった大地を踏みしめ、美濃大垣で「おくのほそ道」の旅を終えた。

私が目を通した芭蕉関連の文献はごく僅かであり、かつ非常に偏っていることは自覚しているが、それらに基づくと、この旅ののち芭蕉はなんだかんだと理由をつけ、江戸へ行きたがらなかったらしい。嵐山光三郎は「大津は芭蕉が最後にたどりついた心おきなくおちつく地であった」と書いている★14。江戸に残した弟子たちの求めに抗しきれず、一旦江戸へ出向くが、2年も経たずにまた関西へ舞い戻った。体調がすぐれないなか芭蕉は、伊賀上野、大津、京都などに身を置く。いずれも日本列島が大陸の一部だった頃につくられた岩石が周りを取り囲む土地である。

読書感想文という宿題が出されていた自身の夏休みを思い起こされると、共感いただけると信ずるが、「薄い本」というのはそれだけで価値がある★19。芭蕉の「おくのほそ道」もその短さは「文庫本に換算すると50ページたらず」★20と形容され、ゆっくりと朗読をしたとしても1時間ほどだ★21。芭蕉は、その短い作品の推敲に最晩年の5年間を捧げ、磨きに磨きをかける。それは芭蕉にとって苦しくも楽しい営みのように思えるのだが、その作業の多くを、大陸的な岩石が織りなす景観のなかで行っていたわけだ。彼が心の底から落ち着けるのは、実は大陸的な岩石が形づくる景観とそこで生きる人々・文化に抱かれているときだったのだろう。




謝辞
本稿執筆に当たり、JSPS科研費17H02008の一部を使用した。記して謝意を表する。



★1──芭蕉が歩いた道を自然科学的に解釈するという試みは、多くの先人が行っている。代表的なものとして、小島圭二+田村俊和+菊池多賀夫+境田清隆編『日本の自然 地域編 2 東北』(岩波書店、1997)、蟹澤聰史『「おくのほそ道」を科学する──芭蕉の足跡を辿る』(河北新報出版センター、2012)、蟹澤聰史「芭蕉の『おくのほそ道』の地質学と哲学──その1 旅立ちから平泉まで」(文化地質学、1(2)、2018)47-59、尾池和夫『四季の地球科学──日本列島の時空を歩く』(岩波新書、2012)などがある。
★2──米倉伸之+貝塚爽平+野上道男+鎮西清高編『日本の地形1 総説』(東京大学出版会、2001)376頁
★3──この点はすでに蟹澤聰史氏の著作『「おくのほそ道」を科学する──芭蕉の足跡を辿る』(河北新報出版センター、2012)で、「『おくのほそ道』では、新第三紀以降の岩石や地層の織りなす美しさには感歎の声を上げているが、あまりに古い岩石にはそれほどの美を感じなかったようである。」(202頁)と指摘されている。
★4──日本列島がユーラシア大陸の一部であった頃に生成された岩石・地層が露出する地で詠まれた句として、「あらたふと青葉若葉の日の光」(日光東照宮)、「木啄も庵は破らず夏木立」(雲岩寺)、「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」(白河の関)、「一つ家に遊女も寝たり萩と月」(市振)がある。
★5──北里洋「底生有孔虫化石群集からみた中期中新世初頭の東北日本弧の海底地形」(『鉱山地質』特別号、11、1983、263-270頁)、同「底生有孔虫からみた東北日本孤の古地理」(『科学』55、1985、532-540頁)
★6──もしかしたら、地質調査をされたことがない方々には想像が難しいかもしれないが、岩石をハンマーで叩いたときの音・感触は、岩石の種類によって多種多様である。
★7──この部分は最初のメモの段階では「石にしみつく」と記され、その後、推敲の過程で「岩にしみこむ」「岩に染み込む」と変わり、最終的に「岩にしみ入る」に到達したらしい(松尾芭蕉、潁原退蔵+尾形仂訳注『新版おくのほそ道──現代語訳/曾良随行日記付き』(角川ソフィア文庫、2003) 381頁、ドナルド・キーン、芭蕉における即興と改作『おくのほそ道』(講談社、2007)76-92頁
★8──「蚤虱馬の尿する枕もと」
★9──この話はとある著名な地球化学の大家がはじめて山寺を訪れたとき、同行のお弟子さんたちに、「なんで芭蕉が「岩にしみ入る」って詠んだのかわかったよ」と凝灰岩を見ながら語った、と私が又聞きした(と記憶している)ことによっている。これを文章に落とすにあたり、裏を取ろうと、私とそんな話をしそうなお弟子さんや元同僚などに連絡をとったが、みなまったく記憶に残っていない、とのことであった。その先生も鬼籍に入って久しい。30年以上も前の話で、すべてが曖昧模糊となっている。
★10──萩原恭男+杉田美登『おくのほそ道の旅』(岩波ジュニア新書、2002)243頁
★11──小野寺淳『近世河川絵図の研究』(古今書院、1991)282頁
★12──はじめは「涼し」だったが、川下りの体験も踏まえ推敲時に「早し」になったと解釈されている。例えば、長谷川櫂『「奥の細道』をよむ』(ちくま新書、2007)253頁
★13──守屋俊治+鎮西清高+中嶋健+檀原徹「山形県新庄盆地西縁部の鮮新世古地理の変遷──出羽丘陵の隆起時期と隆起過程」(『地質学雑誌』114(8)、2008、389-404頁)
★14──嵐山光三郎『芭蕉紀行』(新潮文庫、2004) 381頁
★15──「月山は標高1984メートルで、芭蕉が生涯登った山のなかで一番高い。命がけであったろう」。嵐山光三郎『芭蕉という修羅』(新潮文庫、2019)259-260頁
★16──松尾芭蕉、潁原退蔵+尾形仂訳注『新版おくのほそ道──現代語訳/曾良随行日記付き』(角川ソフィア文庫、2003) 381頁
★17──谷釜尋徳「松尾芭蕉の歩行能力の検証──『曾良旅日記』の分析を中心として」(『体育学研究』66、2021)607-622頁
★18──イナガキヤスト氏のtwitterをぜひご覧ください。
★19──私事ながら、武者小路実篤の『友情』を最初に手にしたときの感動はいまだに鮮烈である。
★20──ドナルド・キーン、芭蕉における即興と改作『おくのほそ道』(講談社、2007)76-92頁
★21──https://www.audible.co.jp/pd/奥の細道-オーディオブック/B00YTBK150?qid=1640636407&sr=1-1&ref=f=a_search_c3_lProduct_1_1&pf_rd_p=051ed80d-7075-4d26-8156-6887bfda8699&pf_rd_r=1RT91R1N4MF49AXH72QA

いとう・たかし
地質学、鉱床学、地学教育。茨城大学教育学部教授。NHK高校講座「地学」講師(2005〜12)。主な共著=『地球全史スーパー年表』(岩波書店、2014)、『海底マンガン鉱床の地球科学』(東大出版会、2015)など。主な論文=「自然災害に対する危機意識と実際の行動──フィリピン・ヴィサヤ地域の場合」(単著、2017)、「青森県深浦地域の新第三系マンガン鉱床から産出した放散虫化石とその意義」(共著、2019)など。


Takashi Ito
Geology, Ore Geology, Earth Science Education
Professor of Education at Ibaraki University





【Issue vol.1】
鏡の日本列島 1:「真新しい日本列島」の使い方を考えるために/Mirrored Japan 01: Towards the Development of “Mirrored Japan”/镜中的日本列岛 1:思考“全新的日本列岛”之使用方法


【Issue vol.2】
鏡の日本列島 2:日本列島のかたち──なぜそこに陸地があるのか/Mirrored Japan 02: The Shape of the Japanese Archipelago -- How nature shaped its current form/鏡中的日本列島-2:日本列島的形狀──為何那裡會有陸地?


【Issue vol.3】
鏡の日本列島 3:鉄なき列島/Mirrored Japan 03: Archipelago without Iron/镜中的日本列岛-3:无铁之岛


【Issue vol.4】
鏡の日本列島4:芭蕉と歩く「改造」後の日本列島/Mirrored Japan: The “remodeling” of the Japanese archipelago and its expression in the works of Basho/镜中的日本列岛-4:与松尾芭蕉同游“改造”之后的日本列岛


鏡の日本列島4:芭蕉と歩く「改造」後の日本列島
Mirrored Japan 04: The “remodeling” of the Japanese archipelago and its expression in the works of Basho
/镜中的日本列岛-4:与松尾芭蕉同游“改造”之后的日本列岛
伊藤孝/Takashi Ito

協賛/SUPPORT サントリー文化財団(2020年度)、一般財団法人窓研究所 WINDOW RESEARCH INSTITUTE(2019〜2021年度)、公益財団法人ユニオン造形財団(2022年度〜)