生環境構築史

第2号  特集:土政治──10年後の福島から Soil Politics: From Fukushima 10 Years After 土政治──從十年後的福島說起

放射能災害のなかで動く「土」──土の除却と再利用をめぐって、飯舘村長に聞く

杉岡誠【福島県飯舘村村長】

Soil in the midst of a radioactive disaster: An interview with the mayor of Iitate Village of Fukushima on the removal and reuse of soilMakoto Sugioka【mayor of Iitate Village, Fukushima】

核災中的〈土〉 ― 飯館村村長談土壤清除和再利用問題

How has the radioactive disaster caused by the nuclear power plants, a modern monster, changed the nature of “soil”? Soil, the basis of human habitat, was not only polluted. It also become a target of measurement in terms of health hazard, and was stripped from farmland, moved, exchanged or even reused in accordance with the government policy of decontamination, interim storage and final disposal. This process must have changed soil in its meaning as well.
In this interview, Makoto Sugioka, a nuclear physicist and the new mayor of Iitate Village in Fukushima Prefecture, describes the reality of their struggling to rebuild their habitat, focusing on soil.
Let us look back at the general situation. The accident at the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant caused by the Tohoku earthquake in the spring of 2011 has brought radioactive contamination to the Tohoku and Kanto regions of Japan. In particular, the government conducted an exhausting decontamination project in eleven municipalities in the Pacific side of Fukushima Prefecture, most of which was completed by the spring of 2017. Numerous bags containing contaminated soil have been temporarily stored in their respective districts, but the government says they can bring all of them to the interim storage facilities surrounding the Plant by the spring of 2022. But beyond this, there is the challenge, huge and with no promise, of transporting them to a final disposal site outside the prefecture by 2045.
The village of Iitate, the setting for this article, is one of the eleven municipalities mentioned above, and was forced to evacuate its entire village. By April 2017, most of the area had been decontaminated by the ministry of environment, and after six years of evacuation, people were allowed to return to their home, but by 2020, the population had not reached a quarter of its former size. On the other hand, there is a difficult-to-return area designated by the government because of the serious contamination. The reconstruction of this area, which started later than the others, notably includes the reuse of contaminated soil for the development of farmland. The surface soil of the farmland stripped from the village will be used for land reclamation and infrastructure development, and the clean soil will be put on it to shield and provide soil for farming.


[2021.3.4 UPDATE]


聞き手:青井哲人

青井哲人──1カ月半ほど前に村長になられたばかりで多忙をきわめる杉岡誠さんにこのような機会をいただいたことを重く受け止めています。私どもが立ち上げた「生環境構築史」の運動の拠点となるWebzine第2号では「土」をテーマとしますが、人類が地球を加工する生環境構築の歴史のなかで、近代のモンスターたる原子力発電所が引き起こした放射能災害は、土のありようをどう変えたのでしょうか。実際、生環境の構成要素として先人たちがつくってきた土が、「汚染土壌」などと呼ばれ、除染、中間貯蔵、最終処分、あるいは再利用などという政策枠組みのなかで移動あるいは交換されていく事態は過去にないものでしょう。放射能災害と土の関係はそうした意味で人類史的な問題であり、同時に地域再建の格闘におけるきわめて具体的な課題でもあります。

私は昨年(2019年9月)、あるプロジェクトの関係で、当時飯舘村役場の農政第一係長という立場にあった杉岡さんのお話を聞いています。発災から避難へ、避難先での営農継続支援、そして除染・避難指示解除後の営農再開支援など、膨大な情報を恐るべき速度で整然と話してくださり、圧倒されました。今日は、村長になられた杉岡さんに、汚染された土の再生や再利用を主軸としてお話をおうかがいしたいと思います。

それではまず杉岡村長のバックグラウンドを簡単にお話いただけますか。杉岡さんは原子核物理学を専門に学ばれていますね。

杉岡誠──1976年、東京都世田谷区に生まれ、小学校1年のときに川崎市に移りました。中学校入学直前に、飯舘村にある母方の実家のお寺で住職をしていた祖父と養子縁組をし、以後「杉岡」姓で25才頃までは関東にいました。そうですね、たしかに東京工業大学の大学院で原子核物理学を研究しています。原子核物理学というと皆さん原子力を思い浮かべるでしょうが、私が所属したのは素粒子物理学を専門とする研究室で、理論を実証する実験物理を学び、アメリカでの実験に参加していました。

その後、2000(平成12)年に福島県の飯舘村にIターンをして、翌2001年度から飯舘村役場に19年数カ月勤めましたが、今年(2020年)7月に退職。10月27日に村長として初登庁させていただいたという、およそこんな経歴です。



青井──アメリカでの実験とはどのようなものだったのですか。

杉岡──修士2年のとき理化学研究所放射線研究室所属のJRA(ジュニア・リサーチ・アソシエイト)としてアメリカのニューヨーク州にあるBNL(ブルックヘブン国立研究所)でのRHIC-SPINという実験に参加しました。その一部としてPHENIXと呼ばれる検出器を建造するなかで、新しいミューオン検出器の動作・性能の試験をしました。戦時中のマンハッタン計画で原爆開発をしていたLANL(ロスアラモス国立研究所)の施設をお借りしたこともあり、アメリカと日本を行ったり来たりしていました。

青井──まさか故郷でこのような原発事故が起きるとは、ということであったと思いますが、大学院時代の研究経験は今日につながっていますか。

杉岡──修士の後、博士課程1年で中退して飯舘村にIターンしたのですが、私のなかでは科学的な探究としての物理学はその時点で断ち切ったはずでした。今後は実家のお寺を支えてきてくださった方々、そしてそうした方々につながっている飯舘村の皆さんのために人生をかけていきたいと決意したわけです。つまり自分の勉強や研究を生かすなどということは微塵も考えていなかったのです。ところが2011(平成23)年にあの事故が起き、10年前に学んだことを生かさざるをえない状況になったのだと思いました。断ったはずの学問の蓄積を使うことになってしまった、というのが正直なところです。

放射性物質による土壌の汚染と除染

青井──では具体的に環境の汚染と除染の問題に入りたいと思います。まず「汚染土壌」はつくられたものです。当然ながらつくったのは原発事故ですね。放射性物質が南東の風に乗って運ばれ、雨や雪で落ちた。しかし他方で、その状態をどう扱うかを決める政策や法制度が除染を必要とする土壌の範囲を定めたという側面もあります。政府は早くも震災から5カ月後の2011(平成23)年8月に放射性物質汚染対処特別措置法★1 を公布(翌2012年1月1日施行)するなど、除染から中間貯蔵におよぶ基本方針を定めていますが、村の現場では除染はどのように進んだのでしょうか。

杉岡──国の政策を私が説明するのは適切ではないので、私たちがこの目で見てきたこと、実際に行ってきたことに限定してお話します。飯舘村の場合は「除染特別地域」★2、つまり国が直轄で除染を行うエリアに指定されました。実際に除染が始まる前に、2011(平成23)年度に除染モデル実証事業★3 が行われていたのを私たちは見ていましたので、いろいろな方法、可能性があるということを役場の職員として理解していました。かたや、「国が除染をやりますから」という一言ではとても住民は納得できません。そこで具体的にどのような考え方なのか、どのような制度や方法なのか、村内20の行政区ごとに環境省に来てもらって説明会を開き、逆に住民の声を環境省に聞いてもらうということで進めていきました。住民と国が直接にやりとりするということは滅多にないことです。その意味では環境省も苦労したと思いますが、現場の実情や思いに直接触れることを村が求めたという特殊な事態があったわけです。

国の説明は、具体的には特措法と除染関係ガイドラインで定められた「生活環境」★4 を中心とした範囲について、その面的な空間線量を長期的に下げていく、そのなかでの短期的な除染である、という内容でした。つまり村民が当初考えていた、すべてのエリアの放射性物質をきれいに取り除くということではないのだということが次第に理解されていきました。村民の皆さんは仕事を失い、継続的な収入源を失った方が多く、そうでなくても将来をどうしていくのか、帰れるのか帰れないのか、といった大きな不安を抱えていました。除染をどう受け入れるのかという困難なプロセスは、先行きの見えない生活不安と一緒にあり、同時にあったのだということを見逃さないでください。ですから飯舘の村民は除染を国にまかせっきりということはなかったし、除染が終わって避難指示解除となった時点でどんな情勢になっているのかをウォッチする状況もあったと思います。国が方針を決め、具体的に住民と擦り合せながら進んだ除染ですが、村民が無条件で納得して受け入れたことはないし、飯舘村役場としても全面的によいと言ったことはありません。問題が生まれるたびにそれを具体的に環境省にぶつけて回答を引き出し、役場職員もその問題に直面しながら議論を共有してきました。それが飯舘村の除染であったと理解しています。

青井──少し引いた目で見ますと、放射性物質そのものは東京電力が出したもので、東電が自ら回収すべきものとも考えられますが、一連の裁判では「無主物」と判断されているようです。現実的にその範囲を物的に確定できないということもあるでしょう。ここではその問題には立ち入りませんが、政府としては放射能汚染の問題を加害者と被害者の民-民の事案として放置せず、汚染物質の除染や貯蔵を国の事業として公共的に実行し、その負担を東電に対して「求償」するという形式をとることになった★5。こうして国と住民とが直接交渉する関係がセットされたわけですね。

杉岡──大枠はそのとおりでしょうが、あらゆることの矢面に立ったのは国ではなく村役場の職員です。正職員はもちろん、臨時職員などさまざまな立場の人々が矢面に立った、そのように私は認識しています。もちろん制度を組み立てて執行するのは国です。その国に対して住民の声をいかに伝わりやすいかたちで伝えるかが重要ですが、飯舘村の職員はいわゆるインタープリター(翻訳者・解釈者)としてよく奮闘したと思っています。

青井──村長がさきほどおっしゃったように、除染対象は「生活環境」に限定されました。具体的には宅地と農地が中心です。山林はそれらに面する20mまでの範囲に限定。しかしそれだけで生活環境が成り立っているわけでない。

杉岡──もちろんです。さきほどの加害者と被害者という関係は厳然たるものです。それでも、もし汚染された環境をすっかり忘れ、関心を失ってしまえるのならそこまでの怒りはないかもしれません。しかしそこには自分たちが暮らしてきた家があり、自分たちが耕してきた田畑があるのだという強い思いがあるからこそ、一つひとつの局面で強い言葉が出てきたのだろうと思います。声を大にした発言は自分が実現したい未来があるからこそのものと認識していますから、それを環境省に、あるいは場合によっては農水省に届けていろいろな対応を引き出してきたわけです。

青井──具体的には山の問題、溜池の問題などがあると思いますが、たとえば土を耕して恵みを得るといった観点からとくに強い除染の要望があがった場所などはありますか。せめてここまで除染してほしいというような。

杉岡──当然「すべて」ですね。全部をきれいにしてほしいというのが地域の思いです。根本的には、どこまでというラインなどありえません。そもそも私たちも含めて地域の人間からここまでお願いしますなどと頼む筋合いのものでもありませんよね。だけれども、現実的に自分の人生を進めていこうとするなら、納得せざるをえない範囲を見出そうとするなかで個別の交渉をするほかない。そうでなければ故郷を捨てるといった極端な選択肢しかなくなってしまいます。だから自分たちにできることは何かを考え、提示しながら前に進んできたということです。

青井──宅地については、屋根の洗浄、雨樋の堆積物除去、あるいは庭の表土の削り取りなどが行われてきました。建物解体は無償で行われることになり、かつての民家や町並みは姿を消しました。農地については草刈りなど可燃物の除却と表土5cmの剥ぎ取りを行っています。この数字もまた汚染土をつくり出す基準なのですが、こうした可燃廃棄物や汚染土壌がフレコンバッグに詰められ、それぞれの行政区ごとに集積所、つまり仮置場★6 がつくられていきました。その場所はどのように選定されていますか。

杉岡──その前に表土5cmという数字についてお話しておきます。この数字はたしかに国が決めたということで間違いありませんが、2011年度の除染モデル実証のなかで、放射性物質がどこまで沈降しているかが確かめられており、5cm以内に99%ある、それ以上はほぼ沈降していないという結果をふまえています。ただし、これは土が動いていない場合のことです。実際にはウェザリングや獣害もあり、この実証データがどこにでも当てはまるわけではないと思います。



fig.1── 圃場整備された農地
遠景に「仮仮置場」が見える。フレコンバッグが積み上げられ、シートが被せられている。飯舘村(2019年8月、青井撮影)


除染土の処分については、中間貯蔵施設へ集積する前の「仮置場」という概念が国から出てきて、役場としてはそれを村が管理する公有地でつくり出せないかということも考えたのですが、その整備にも時間がかかって間に合わないということから、牧野組合★7 にご相談をして土地の提供をお願いしました。しかし除染を進めていくには牧野だけでは間に合わないということで、各行政区に「仮仮置場」として平坦な水田や共有地の提供をお願いし、協議、調整をしてその場所を決めていったということです。飯舘村だけでしょうね、「仮仮置場」という言葉を使っているのは。

青井──その仮仮置場は比較的新しく圃場整備が行われた、区画が大きくて整形な水田が選ばれるケースが多いように思われます。搬出入や管理の効率が重視されたためでしょうか。

杉岡──飯舘村では圃場整備は昭和40~50年代に行われているものがほとんどです。他地域で行われているような傾斜地の造成では仮置場確保はとても間に合わないという判断のなかで、全村避難で営農ができない状況だったという背景もあり、平坦な水田や共有地の提供をお願いすることになりました。その際、搬入・搬出の効率、そして浸水被害が起きにくい場所を紹介願えないかということで、ある意味で必然的に道路や排水が整備された地区で最も条件のよい水田が皮肉にも仮仮置場になってしまった、ということです。

「土」の再生さえも変質した

青井──他方で表土を剥ぎ取った農地には黄色い真砂土が入ることが多いようですね。おそらく山から採った土と思いますが、飯舘村ではどこから採っていますか。

杉岡──この役場のすぐ近くの山ですね。飯舘村ではほとんどそこから採っています。

青井──村有地ですか。

杉岡──村有地と民有地が混じっています。

青井──一般論としては、除染の事業そのものは公共土木事業にほかならず、実施区域ごとに建設会社が請け負う。この観点からは、表土を剥ぎ取った農地に入れる土は、いわば建設用の「資材」とみなされる。剥ぎ取った土は国の所有になるわけで、その埋戻しの資材としての真砂土とのあいだで等価交換されたものとみなされるそうです。とても「等価」とは思えませんが。いずれにせよ埋戻しの土は、業者が資材として調達するものですが、飯舘村の場合はそれを一カ所に集めるような調整を役場がなさったのですか。

杉岡──そうですね。土を採る場所が分散していたり、村外から運ぶなどということになると時間もかかりますし、村内で効率よくということがありました。

青井──これだけ集中的に一カ所から土を採るケースは珍しいように思います。

杉岡──そういうところが役場の頑張りどころなのです。業者にまかせきりでよいとは思っていない、ということです。もちろん請負業者には責任を果たしていただかなければなりませんが、それを進めるうえでより早く、よりよいかたちになるようにつねに自ら考えていく気風が住民にも役場にもあると思っています。

青井──あの黄色い真砂土を、再び水田や畑として耕作できるものに改良するのにまた小さからぬ苦労があると思うのですが、一般にはどのような方法が採られていますか?

杉岡──まず堆肥は村の営農再開支援事業を使って供給できます。あとは反転耕ということで上下入れ返してもともとの地力のある良い土を上に持ってくる方法、耕起・耕耘をしたり、緑肥といって菜種などを蒔いて生えたものをそのまま鋤き込む方法などをやってきています。そうした方法は、作付けしようとする品目などによって少しずつ違ってきます。たとえば水田ならば水田のプロが当然村内にたくさんおられます。その皆さんの経験から最も適切な方法を選び、再開の前年までにいろいろ準備を進めていくということです。

青井──そうした方法は、新しい農地を開墾したり、地力の弱った農地を改良したりするときに先人たちが行ってきたことと基本的に大きな違いはないと思ってよいですか。

杉岡──いや、相当に違う部分もあります。たとえば山林の恵みでもある腐葉土は、今は圃場に入れないでください、ということになっています。放射性物質の混入の心配があるものは使わないということですね。あるいは土壌の残留放射能が非常に低い場合でも必ず一定の指導のもとでカリ資材を入れてもらい、さらに生産物のモニタリングもします。多角的、多重的にできることを続けている。こういったことはむろん過去にはなかったことです。

青井──カリ肥料を使うのは植物のセシウム吸収を抑えるためですね。

杉岡──土壌中のカリウム濃度を一定以上にすることで、植物がそれを吸い、放射性セシウムを吸わなくなる、いわゆる吸収抑制です。村内の農水省によるモデル除染水田では2012年度から水稲と野菜の試験栽培をしていましたが、環境省が除染した水田における水稲作付け実証は2016年度、営農再開は2017年度からです。南相馬などは震災直後から作付けを継続しているところもありますが、いずれにせよこうした取組みは世界的にも歴史的にも特殊だと思います。  

青井──都会しか知らない学生たちと話していると、彼らのなかでは「土」は「自然」という漠たる価値観と疑いなく結びついているようだということに気づきます。どうやら人間化されていない手つかずの自然といったイメージがある。しかし土(土壌)は、当然地球史的な自然をもとにしてはいるものの、それを素材に人が大変な時間と体力、技術とコストを投じて人為的につくりあげ、維持してきたものだともいえます。その人為的な介入方法さえも原発事故災害によって変容を被っているということですね。



fig.2── 営農再開に向けて再生されていく土
飯舘村にて、2019年11月、青井撮影


杉岡──そのとおりです。何十年、何百年と時間をかけてつくってきた土だからこそ大事なのであって、剥ぎ取られるという話が出た時には当初誰もが反発の声を上げ、誰が土を元通りにしてくれるのかと問い詰めたりもしたわけです。一朝一夕に土を良い状態にもっていけるものではないことは誰もがわかっている。わかってはいるけれども、20年、30年待つのではなく、いまできることをやる。作付けをすることで土はまた変化してくる。そういうかたちで一歩踏み出すことを皆さんが選んでくださっているのです。

除染土の再利用

青井──さきほどお話いただいた除染で発生するフレコンバッグの置場は、飯舘村内に87カ所となっています。それらは双葉・大熊町にまたがる福島第一原子力発電所の周囲に整備されつつある「中間貯蔵施設」★8 に運び込まれているわけですが、落ち葉や堆肥、家畜の糞などの有機物など可燃性廃棄物は村内に建設された「減容化施設」で焼却して灰にすることで容積を減らしたうえで中間貯蔵施設へ、という工程になると思います。他方、土については直接に中間貯蔵施設に運ばれているのですね。

杉岡──そうです。ただし飯舘村の場合は村内南部の長泥地区にも運ばれています。当初は100%中間貯蔵施設へということを想定していましたが、いわゆる帰還困難区域に指定された長泥を「特定復興再生拠点」とし★9、そのなかで「環境再生事業」の試験がはじまったため★10、そこに土を運んでいます。このことで仮仮置場の解消がいくらか加速された面もあります。

青井──除染で剥ぎ取られた汚染土壌の再利用を含む農地造成事業ですね。そこで再利用される土は、各地から中間貯蔵施設に集められた土を改めて運び出しているのではなく、飯舘村内の仮仮置場から直接に運んでいるわけですね。

杉岡──はい。むしろ条件として、村外から土を持ち込むことはない、という約束のもとでこの事業は始まったわけですから。

青井──外の土を押し付けられるようなかたちにはしない、ということですね。

杉岡──押し付けられる云々というような言い方は語弊がありますね。そういう話があったわけでもないですし、そもそも長泥地区の皆さんの思いとしては、除染土の再利用を受け入れることで村全体に貢献できるのではないか、村の人たちが困っている状況に少しでも役に立つのならばという気持ちもあってこの事業を進めているのですから。またさきほど土は時間をかけてつくりあげるものだという話がありましたが、村の皆さんがそうやってつくってきた土だからこそ、長泥の方々もそれを資産として受け入れるということなんだと私は思っています。

青井──少し遡りますと、最初に触れた2011年8月公布の放射性物質汚染対処特措法を受けて、汚染への対処の基本的な「方針」を11月に閣議決定しています。この「方針」にすでに、「汚染の程度が低い除去土壌について、安全性を確保しつつ、再生利用等を検討する必要がある」と述べられています★11。2016年に南相馬市小高区滑津地区の仮置場で行われた実証実験はその具体化とみなせるのでしょうが、そこでは汚染土壌のマウンドをつくり、汚染されていない土で被覆し、空気線量や地下水への影響をたしかめる実験が行われている★12 。その知見に基づいて長泥の事業が行われているという理解でよろしいですか。

杉岡──滑津の実証サイトは担当が視察に行っています。しかし、それは長泥で事業を行うことが決まっていたから、というようなことではありません。また長泥での事業実施を前提に、そのための実験を滑津で行ったという順序ではありません。後になって環境省による長泥の環境再生事業が始まり、その際に滑津で得られたデータがさまざまな懸念に対する説明根拠として活用されたというのは事実でしょう。

青井──滑津での実証実験の後、2018年には二本松市の道路舗装、あるいは常磐自動車道の拡幅工事の盛土に汚染土壌を資材として再利用する計画が進められながら周辺住民の反対で頓挫しています★13 。そういったなかで、長泥の皆さんがある意味では積極的に村内の汚染土壌を使って環境再生をということになった、そこに至る経緯をお話いただけませんか。

杉岡──具体的な経緯は環境省に聞いてください。さきほど、長泥の皆さんが村に貢献したいという思いをお持ちだと申し上げましたが、そこだけを強調するのは不適切でしょうし、また最初からすっきりとそうした気持ちになったということでもないでしょう。またおっしゃるとおり報道でいろいろなことが伝えられていましたが、長泥の皆さんは報道を鵜呑みにするのではなく、実証データをもとに具体的な議論を重ねてこられました。ものごとを結果から見るのは適切ではありません。「積極的」ということも、つねに複雑な過程のなかで何とか前に向かって進むためにいろいろな気持ちや考え方を整理してきた現時点の結果ですし、それもまだ経過にすぎません。いまも一歩一歩進んでいます。結果から振り返るような問いを発するような時期ではないのです。

青井──長泥の皆さんにとってこの汚染土壌を再利用する事業がどのような意味を持っているのか、もう少しいろいろな角度から理解すべきということかもしれません。長泥地区は飯舘村のなかでも放射能汚染が深刻で、帰還困難区域とされ、したがって国直轄の一般的な除染事業が行われず、なかなか将来が見えなかったということがありますね。

杉岡──とはいえ、帰還困難の状態からいきなり環境再生事業が立ち上がったわけではありません。国が「特定復興再生拠点」という制度を示し、その区域を定めるために特定復興再生拠点計画をつくるということで、長泥ではそのための協議をずっとやってきました。最初は「生活環境」にあたるエリアを集中的に除染する計画でしたが、それが長泥の皆さんにとっての将来像の実現につながるのかというような難しい問いを抱えながら協議がはじまったのだと思います。そうした経緯のなかで、のちになって除染土を再利用する環境再生事業という話が協議事項のひとつとして浮上してきたということです。

青井──実際に長泥地区に戻って住みたいという方がいらっしゃるということですね。

杉岡──実際のところはこれからですが、除染が進み、環境が整えば帰りたいという気持ちを答えた方々がいらっしゃる。そうでなければ特定復興再生拠点の話は始まりません。大事なのは、何がどのように進むのか目の前に何も見えていない段階で、それにもかかわらず帰りたいという意志が示された、ということです。その意志が実現できるように環境を整えること、その一環として村役場としてもできるだけのことをやるのが責務だということです。

青井──長泥の方々との協議については運営協議会の議事録★14 があり、2018年から一つひとつ進んでいる様子を拝見しました。

杉岡──国が何かを進めようとするときは、まさに除染事業などはそうですが、計画やガイドラインを決め、何度か住民に説明し、合意がとれたらあとは国の予算執行権のなかで実行するというのが一般的なあり方ですよね。さきほどもお話したとおり、役場としてはそこに住民の意向をできるだけぶつけて対応を引き出す。しかし長泥の環境再生事業はそういう進め方とは違います。住民や有識者を含む運営協議会は、説明会というような位置づけを大きく超えて、環境省からの提案に対して住民からも意見が出ていろいろな議論が交わされ、定期的に会議の場を持ち、課題が出るたびにそれを共有し、一つひとつを議論しながら動かす、そういった場であると認識しています。実行する前に意見が言え、実行した結果についても一緒に議論する。今もそうやって進めている最中です。これは国としてもかなり稀有な進め方なのではないでしょうか。

青井──環境再生事業を担う何らかの事業体が設立されているのでしょうか。

杉岡──いえ。検査などの部分的な業務、あるいは議事録作成などが委託されているということはありますが、環境再生事業の主体として何らかの事業者が設立あるいは選定されるということではなく、主体はあくまでも国です。

青井──なるほど。運営協議会の議事録を拝見しますと、たとえばハウスでの試験栽培を担当する事業者がある作物をつくってさまざまなデータを採っているのに対して、住民の方々がもっと地域にふさわしい作物でテストをしてほしい、私たち住民一人ひとりがつくりたいものと試験栽培の作物とがズレている、私たちも一緒に進めたい、といった発言をしておられます。住民の皆さんが主体的に方向性をつくり出そうとする姿が見て取れます。

杉岡──まさしくそのとおりだと思います。たとえば仮に国が一方的に放射能に対して安全性が高いことがわかっている作物でデータをとったとしても、長泥の人たちにとっては自分たちがつくりたい作物と違っていては何も意味がないのです。自分たちが手をかけ、自分たちが納得するやり方で栽培してみてデータを得るということでなければダメだということはあるでしょう。皆さんたいへん頑張っているのです。内外からいろいろな批判を受けることもあると聞いていますが、情報が正確に広がっていかないことの問題もあるのだと思います。

青井──汚染土壌については、具体的には耕作地の造成に再利用されるのですね。谷に沿った農地を村内の仮仮置場から運ばれた土で埋め立て、汚染されていない覆土で遮蔽して農地とするのだと理解しています。

杉岡──環境再生事業としてはまだそこまで進んでいませんが、村としては土を入れるだけでなく圃場整備事業を行ってその後の農地利用に資するべきだろうという考えがあり、それが環境再生事業に合流していくであろうという流れです。長泥は村内でも圃場整備がこれまでに実現しなかった地域だという背景もあります。

青井──長泥では今後、住まいや里山も含む集落の環境世界が再建されていくことになるのでしょうが、とくに土に関しては他地区以上にまったく新たにつくり出されるということになりますね。



fig.3── 長泥環境再生事業の露地栽培エリアにおける試験栽培
放射能濃度が1kgあたり5000ベクレル以下の除去土壌を遺物除去などの工程を経て再生資材化し、その上に汚染されていない土壌をかぶせて農地を造成し、作物を植えることにより、作物の生育や、再生資材に含まれる放射性セシウムが作物に与える影響を試験分析し、作物の生育性・安全性を確認する(2020年6月頃撮影)。


杉岡──とはいえまったく特別なことというわけではありません。たしかに下には盛土というかたちで村内の除染で発生した除染土を5,000ベクレル/kg以下に振り分け、石などを除去したものが再生資材として使われるわけですが、その上の土や周囲の用排水路などの構造や工法は他の地区でもやってきた土地改良事業・基盤整備事業にもとづいていますから。上にかぶさるのが遮蔽土ですが、それが黄色い真砂土になるというのも他地区の除染後の状況と同じであり、同様の課題があるということになります。

青井──汚染土壌でつくる盛土の上に、厚さ50cmの遮蔽土が被せられる構造が計画されているのだと思いますが、その上に実際の耕作土壌が乗るのでしょうか。

杉岡──いえ、その50cmの遮蔽土がすなわち耕作土壌ということで、それにあわせて用排水路も建設されます。つまりこの50cm分をいかに肥やしていくかです。

青井──福島第一原発が吐き出した放射性物質のなかで現在実質的な問題になるのはセシウム134、 137だとされていますが、50cmの厚みの遮蔽土で覆ってやれば、下の盛土として使われる汚染土壌からそれら放射線は押さえられる。これはセシウムが土に吸着しやすい性質も関係しており、地下水への影響もほとんどないということが、さきほどの滑津での実証実験で確かめられていると理解しています。

杉岡──それは長泥でも実証実験をして住民の皆さんと共有しながら進めています。実際にどんな植物を育てるかで根の長さも到達する深さも違いますし、いろいろな条件のもとで実証を重ねていかなければならないわけですから。

青井──科学的な理論と実証に基づいて理解していく一方で、どうしても感情的な部分での不安や抵抗など複雑な部分があるのではないかと思うのですが。

杉岡──すべてを最初から納得して進めているわけでは当然ありません。しかし、不安がどこかにあるのだろうという漠然とした先入観でものを見るのは適切ではありません。一つひとつの不安や課題を解決して進んでいくのだという考え方に立って、長泥の皆さんが直接関わりながら自分たちで方針や結果を共有できる状況、不安があればそれをぶつけられる状況をつくってもらっているということですね。かといって不安がないということではありません。しかしながら、長泥以外の人々こそが憶測で漠たる不安を生み出してしまっている面があるのでは、と思っています。正しい知識と情報を持たない、当事者でない、実際の状況に立ち会っていない人々、飯舘にも来たことがないような人々が発する情報が、現実には国内にも海外にも広がっていく。しかし長泥の環境再生は誰のための事業なのか。地元の皆さんが必死になって事態を受け止め、未来に向かって努力している時に、憶測で不安をかき立てるのはやめていただきたいと私は思っています。

属地的農業と属人的農業、そしてその先へ

青井──飯舘村では原発事故で全村避難となり、村の人々は近隣の市町村から遠隔地にいたるまで広い範囲に避難されました。その後、村に帰還された方、村と避難先を往復する2拠点・多拠点居住的な暮らしをしている方、そして新しく村にやってこられた方、こうした方々がつくる社会の姿が、これからの村のありようにつながる何らかの過渡的なステップとみなせるのかもしれません。現在、そしてこれからの共同体の姿について、村が展開しておられるさまざまな営農支援と絡めてご紹介いただけませんか。

杉岡──営農支援については相当広範囲にわたって展開しておりとても短時間ではお伝えできません。先にも申し上げたとおり、土は一朝一夕には最良の状態にできないにもかかわらず、一歩を踏み出す選択をしてくださっている方が100人ほどいらっしゃる。村では「農地を守る」「いきがい農業」「なりわい農業」「新たな農業」といった言い方で農地の保全や営農を支援していますが★15、そのうち「なりわい農業」に該当する方が100人ということです。水田のみでも営農面積は昨年(2019年度)は約43ha、今年(2020年度)は140 haほどに増えています。そうやって自分たちが営みを再開することによって土を肥やしていくという気概が村の人たちにはあるのです。それが一番大事なことですし、私が誇らしく感じることです。

移住について農業関係の方々のプロフィールを申し上げれば、例えば鹿児島の沖永良部島から移住してこられた方がいます。その方は超遠距離の2地域居住をされています。冬場は暖かい鹿児島に戻って農業をやり、6月頃になると涼しい飯舘に来て11月くらいまでやはり農業をする。どうしてそんな暮らしをしておられるのかというと、鹿児島で栽培してこられた、東京周辺でも人気のソリダゴ・タラ(ゴールデンロッド)という花を、気候風土や市場との距離が鹿児島とは違う飯舘でつくろうと考えたからとお聞きしています。あるいは震災後に村の男性と結婚して子どもをもうけて村の住宅に住んでおられる女性もおられます。どうしても飯舘で花をやりたいということでだんなさんを説得して移住してこられました。あるいは東京で脱サラしてやはり花をやりたいということで準備を進めている方もおられます。

最初に申し上げた沖永良部島からの方と、3番目に申し上げた東京で脱サラした方は、おふたりとも村内のある方の紹介ですぐに土地を見つけることができました。現状では帰村者はまだ少ないのですが、村外出身の方でもやる気があれば、じゃあこの土地を使ってみたらどうか、こういうやり方をするとよい、あの人の助言を聞くとよい、というようにサポートしてくれる村民の方がいるんですね。そうしたこともあって、こうした事例が生まれてきていると思います。もちろん事例はまだたくさんあるわけではないし、始まったばかりですから、彼らが良い成果を出して、生き生きと移住して良かった、飯舘で農業をやって良かった、村の人たちに助けてもらって良かったと思えるような状況が、次につながると思うんですね。

イニシャルの支援だけをして、あとのランニングは自助努力というのではなく、むしろそこをていねいにサポートしていくことが大事だと思っています。お金だけではなく、話をよく聞いて、村の人につないだり、一緒に考えるというようなことです。これはほかではなかなかできない飯舘村ならではの取り組みだと自負するところです。そういったことも含めて、村に可能性を感じて移住してくださる方がいま130人ほどになっているということだろうと思っています。

青井──村内居住人口の約1割に相当する数ですね(2020年12月1日現在、現在飯舘村人口は住民基本台帳上は1,835世帯5,259人、村内居住者は768世帯1,486人)。

杉岡──村をいくらか余白のあるキャンバスだと思っていただき、そこにご自身の思いを描く、そういう可能性を感じていただけるような状況がいまあると思っています。今後さらに魅力あるものにしていくことが求められると感じています。

青井──キャンバスの余白、そこに可能性を描く移住者、彼らをサポートする住民や役場といった関係性からは、震災後の飯舘村に何らかの新しい共同体というべきものが生まれてくる兆しを感じておられるでしょうね。

杉岡──そうですね。まだ一歩、二歩というところですが。もちろん移住者の方だけで村を再興するとか、そういったことでもありません。もともと村の方々と新しい方とがいろいろなかたちで交わることが重要です。それが旧来のコミュニティを温めつつ新しいコミュニティを生み出していくことにつながるでしょう。

強調しておきたいのですが、一度は全村避難になったとはいえ、住民と環境との関わりが断ち切れてしまったわけではなく、全地区のコミュニティを大事にする気風のなかで農地の管理などが続けられてきました。溜池や用排水路の清掃などのためにしょっちゅう避難先から通ってきていたわけです。つまり大半の方が外に暮らしていても、地区のコミュニティが生きている。だからこそ、外から移住してこられる方がいても世話ができる、ということなんですね。

青井──それは大事な話ですね。コミュニティが生きていなければ、移住者の受け入れも、あるいは営農を再開する方が近所の田んぼを借り受けて規模を拡大するといったことも、進みようがないですからね。コミュニティが生きていて、自身の判断のなかで自らを変化させていく柔軟性を持ちあわせていることが重要なのでしょう。

杉岡──Googleの衛生写真を見れば、飯舘の農地が震災後どこも荒れていないことがよくわかります。長泥も同様に、除染が行われず帰還困難区域のままになっていても、やはりコミュニティによる農地の手入れは絶えず行われていました。震災以前も、比曽地区から比曽川沿いに車を走らせると谷の襞からパッと視界が開ける瞬間があり、それが長泥なのですが、飯舘のなかでも一番美しくて好きな風景のひとつです。そこにバリケードができたけれども、それでも地区の人たちは通ってきていた。私たちもそれを見ているからこそ、環境再生事業などに寄せる長泥の皆さんの思いを一緒になって実現しようとしているわけです。自分たちで何かをしようとする魂がある、それが村にかたちを与えてきたし、これからもそうだと思います。

この先、村のなかの共同体が何か新しいものに変わっていくのかどうかはまだわかりませんが、この魂があって、一つひとつ未来に向かって進んでいく力があり、それに共感する方が移住されているのだと思っています。

青井──私は原発事故で強制避難となったいわゆる12市町村をこの4年間ほど廻っています。深い部分はまったく理解が及びませんが、それでも町や村によってまったく個性が違い、ひとくちに浜通りだとか阿武隈高地だとかいった言葉で括れるものではないことはよくわかります。震災後の歩みもじつにさまざまですね。

杉岡──飯舘は兼業農家が多いですが、村の農業はさまざまな品目を作付けする複合経営でした。それに加えて役場勤めや会社勤めをこなし、あるいは自分で土木工事もできますよという方が珍しくないんです。これは大変なノウハウをたくさんの人が備えているということです。だから新しいことにもチャレンジできるし、若い方が村にやって来ても教えきれないくらいの知的財産があるということなんです。私はそれを「ふるさと資源」と呼んでいます。

青井──現実には帰村されているのは高齢の方が多いと思います。そうしたなかで2拠点、多拠点で暮らしている方、移住してこられる方もあわせて村があるということだと思いますが、高齢の方々の今後を考えると村の存続も難しい面もあるように思います。

杉岡──村という言葉をどういう意味で使うかですが、全村強制避難というなかで、新しい場所での生活再建を選ばれた方もいらっしゃいます。先が見えない複雑な歩みのなかでいろいろな選択肢をそれぞれの方が選んで来られたのが現在の姿ですが、それでも村との関係を保っていらっしゃる方がたくさんいらっしゃるということが大事です。後継者がいるのが当たり前だった昔とは違い、たとえ後継者がいなくても自分が頑張ることでその背中を見てくれる人が現れるかもしれないという気持ちで立ち上がった、そういう力は強いと思うのです。そうしたなかで、たとえば農業はふつう属地的なものと考えがちですが、避難先で農業をやりたいという方を支援するため「属人的農業」という考え方を使いました。また今日でも複数の拠点をもって通っても営農できるという、いわば農業の拡張が実現しています。いまはもう「属地」「属人」というカテゴリーをあえて使う必要もありません。柔軟に可能性を広げ、可能性をつなぐということを、村の人たちが自ら考え、実践し、私たちにアクセスしてくださる。私たちはそうした多様な可能性の具現化を支援し、また可能性をさらに広げるように一緒に考え、息切れしないように楽しんでいくことが大事です。

青井──今日はご多忙のなか貴重なお話をありがとうございました。



(2020年12月3日飯舘村役場にて)



★1──「平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法」(平成23年8月30日法律第110号、平成24年1月1日に全面施行)。一般には「放射性物質汚染対処特措法」と呼ばれる。
★2──国が直轄で除染を行う「除染特別地域」は、楢葉町・富岡町・大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村・飯舘村の全域および南相馬市・田村市・川俣町・川内村の一部地域(警戒区域もしくは計画的避難区域であったことのある、都合11市町村に及ぶ地域)。
これ以外に、岩手県・宮城県・福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県の94市町村に「汚染状況重点調査地域」が設定され、自治体施行の除染が行われている。
★3──除染モデル実証事業。内閣府が(独)日本原子力研究開発機構福島技術本部に委託し、「高線量地域における除染の効果的な実施のために必要となる技術等の実証試験」のために行われた事業。2011年度に実施され、2012年3月に報告書が出ている。(http://josen.env.go.jp/area/model.html
★4──特措法(★1)はその目的を次のように定めている。「放射性物質による環境の汚染への対処に関し、国、地方公共団体、関係原子力事業者等が講ずべき措置等について定めることにより、環境の汚染による人の健康又は生活環境への影響を速やかに低減する」(法概要より)。「除染ガイドライン」は環境省除染情報サイトを参照。
★5──「原子力損害の賠償に関する法律」(昭和36年6月17日法律第147号)。
★6──福島県内で最大約1350箇所の仮置場が設けられた。(http://josen.env.go.jp/soil/temporary_place.html
★7──牧野組合(ぼくやくみあい)。牧野は家畜の放牧や牧草の採取に使われる野原のこと。牧野組合はその入会権を法的に設定したもの。
★8──環境省中間貯蔵施設情報サイトを参照。
★9──特定復興再生拠点とは、「将来にわたって居住を制限する」とされてきたいわゆる「帰還困難区域」内に、避難指示を解除し居住を可能とする区域のこと。市町村主体の復興計画にもとづき帰還環境整備に向けた除染・インフラ整備等が集中的に行われる。環境省除染情報サイト内のページを参照。
★10──飯舘村長泥地区では、特定復興再生拠点のなかで、除染にともなう除却土壌(汚染土壌)の再生利用を含む「環境再生事業」が検討されている。環境省中間貯蔵情報サイト内のページを参照。
★11──「方針」(2011年11月閣議決定)のなかですでに、「廃棄物の再生利用」と「除却土壌の再生利用」を推し進めるべきことがうたわれている。(http://www.env.go.jp/press/files/jp/18581.pdf
なお、「廃棄物」は事故由来の放射性物質による汚染廃棄物を、高度成長期の公害問題を背景とする「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(昭和45年法律第137号)に基づき定義したものである。
しかし、日本の法体系では土(土壌)はどこまでも有価物であって、廃棄物とはならない。具体的には、中間貯蔵除去土壌等の減容・再生利用技術開発戦略検討会が2016年6月30日に「再生資材化した除去土壌の安全な利用に係る基本的考え方について」を公表している。
★12──南相馬市東部仮置場における再生利用実証事業。下記を参照。(http://josen.env.go.jp/chukanchozou/facility/recycling/project_minamisoma/
★13──次の記事は環境省方針の具体がまとめられており参考になる。「常磐道拡幅工事での除染土再生利用問題──地元住民反対で再検討の方向」(片岡遼平、『原子力資料情報室通信』第539号、2019/5/1)。
★14──環境省中間貯蔵情報サイト内にて開示されている(★10のURLを参照)。
★15──次の論考を参照。守友裕一「営農再開と地域再生──福島県飯舘村における村と村民の対応」(農村計画学会誌344号2016年3月p. 423-427)。




すぎおか・まこと
福島県飯舘村長。1976年東京都生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科博士前期課程修了(修士号)後、2000年に飯舘村にIターン。2001年飯舘村役場入庁。2020年10月より現職。浄土真宗本願寺派善仁寺住職。

あおい・あきひと
生環境構築史編集同人。1970年生まれ。建築史・建築論。明治大学教授。https://medium.com/vestigial-tails-tales-akihito-aois-notes



序論:生環境構築史からみる土
Introduction: Soil from the Perspective of Habitat Building History
/序論:土壤──由生環境構築史的觀點
藤井一至/Kazumichi Fujii
巻頭チャット:文明、内臓、庭
Opening chat: Civilization, Gut and Garden
/卷頭聊聊:文明、腸道、庭院
アン・ビクレー+デイビッド・モントゴメリー/Anne Biklé + David Montgomery
福島の地質と生環境──岩に刻まれた祈りの世界
Geology and the Human Habitat of Fukushima: Prayer Carved into Rocks
/福島的地質和生環境 ― 刻印在岩石的祈禱世界
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福島原発事故──土からみた10年
Fukushima Nuclear Accident: Ten Years seen from the Soil
/福島核災 ― 由土壤看這十年
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放射能災害のなかで動く「土」──土の除却と再利用をめぐって、飯舘村長に聞く
Soil in the midst of a radioactive disaster: An interview with the mayor of Iitate Village of Fukushima on the removal and reuse of soil
/核災中的〈土〉 ― 飯館村村長談土壤清除和再利用問題
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土なし農業のゆくえ
Consequence of Soilless Gardening
/無土農業的未來
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大地を多重化する──エネルギーシフトと台湾の風景
Multiplexing the Land: Energy Shift and Taiwan’s Landscape
/土地的多元化使用:能源轉型和台灣的地景
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土の思想をめぐる考察──脱農本主義的なエコロジーのために
On the Idea of Soil: Towards a De-Agrarian Ecology
/土壤思想的論考──去農本主義的生態論
藤原辰史/Tatsushi Fujihara

協賛/SUPPORT サントリー文化財団(2020年度)、一般財団法人窓研究所 WINDOW RESEARCH INSTITUTE(2019〜2021年度)、公益財団法人ユニオン造形財団(2022年度〜)