第6号
特集:
戦時下の生環境──クリティカルな生存の場所 Wartime Habitat: A Critical Place of Survival 战时生环境──临界性的生存场所
戦時下生環境ガイド[1]島──閉ざされた領域で継続する戦争
青井哲人【HBH同人】
Guide to the Wartime Environment [1] Island: Sustained Warfare in a Confined TerritoryAkihito Aoi【HBH editor】
戰时生環境導覽[1]島──在封闭地区持续的战争
Kinmen Island has long been a military frontline where two Chinas have confronted each other. The isolated nature of the island has resulted in a protracted political standoff during the Cold War, characterized by condensed and ceremonial military tensions. In a sense, this militarization has profoundly affected the daily lives and society of the islanders, surpassing the impact of short-term wars. Military conversion of villages, construction of underground tunnels, and the transformation of all aspects of daily life have taken place. This article provides an overview, based on Michael Szonyi’s research, of the consequences brought about by the sustained war in the confined space of the island.
[2023.6.10 UPDATE]
金門島
金門島には現在、台北を首府とする中華民国の金門縣(県)が置かれている。ただし台湾の西海岸から台湾海峡を挟んではるか彼方、そして中華人民共和国領土の至近距離に浮かんでいる。中国側からみれば、福建省厦門からわずか2.1km、それゆえ曇天でもつねに姿が見え、泳いでいくこともできるが、実際上の統治権が及ばない島なのだ。1920年代から対立関係にあった国民党と共産党は、日本との戦争において協力関係を結んだものの、日本敗戦とともに対立を再燃させた。そして1946年からの内戦で劣勢に立たされた国民党政権が日本の植民地であった台湾へ敗走してきたことはよく知られていよう。このとき国民党軍は金門島や馬祖群島など大陸に近い島々をなんとか守った。そこに、両政権が角を突き合わせる軍事的前線ができた。その背後に、アメリカとソヴィエトが率いるいわゆる「冷戦」の体制が張り付き、国共の対立は長く固定されていくことになる。その意味では、金門は世界各地に現れた東西両陣営の前線のひとつでもあった。
金門は、太平洋戦争中は日本による軍政が敷かれていた。その成果としての空間や社会の軍事編成を中華民国の国軍が利用する。沖縄の場合は、日本軍による島々の軍事的編成を米軍が組み換えつつ使った。一般に戦後の軍事的空間・社会の多くは、1945年までに組み立てられたものの転用だ。
国軍による「金門島の軍事化」について立体的な視野を与えてくれるのがマイケル・スゾーニだ。スゾーニは明清史の専門家でありながら、2000年代に入って金門を訪ねて以来この島の軍事化の歴史に興味を持つようになった。すでに脱軍事化がかなり進んでいたが、住民の記憶を聞き取るフィールドワークと諸資料を組み合わせ、軍事化の社会史・文化史というべきユニークな研究を刊行している(Michael Szonyi, Cold War Island: Quemoy on the Front Line, Cambridge University Press, 2008)。ここでは日本語で読めるスゾーニのコンパクトな論文「軍事化・記憶・金門社会──一九四九〜一九九二年」(福田円訳、太田雄三監訳、地域研究コンソーシアム、『地域研究』編集委員会、2011、「特集1 金門島研究」)を導きとしつつ、金門大学の曾逸仁先生から提供された情報や写真をまじえて綴ることにしたい。
金門の象徴的重要性
1949年8月、福州を人民解放軍に奪われると、福建省政府と国民党軍は金門島に拠点を後退させることを決断する。人民解放軍の勢いは止まらず、11月には金門に上陸して国民軍と交戦。ところがこの「金門戦役」(激戦地となった古寧頭集落の名から「古寧頭戦役」とも呼ばれる)で、人民解放軍は金門を落とせなかった。ゆえに金門は、国軍からみれば解放軍に対する勝利の地として象徴的な意味を持つことになった。スゾーニに言わせれば、「これらの島嶼を保持する象徴的な意味は、国府がいまだに中国大陸の一部分(少なくとも近接した地域)を領土として統治していることを示すことにあった。また現実的には、それら島嶼は将来中国大陸へ反攻する際の重要な足場となるはずであった」。裏返していえば、国民党政権にとって金門は是が非でも死守すべき砦ともなったわけで、全軍隊に対する金門駐留軍の比率は著しく高められていく。「それが失われては、台湾防衛じたいも危うくなるほどの状況をつくりだすことによって、蒋介石は金門の重要性を高め、アメリカからの支援を確保することに成功した」。冷戦が、金門の軍事化に拍車をかけたのである。「実際、金門駐留軍の規模は最終的に一〇万以上に膨れ上がった。それは同島の文民の約二倍の数であった」。
集落の軍事化
増強された軍隊を島に収容するため、「民家供給令」が出された。軍は集落に入り、民家を供出させて利用した。女性への暴行が頻発し、1951年には「特約茶室」と称する慰安所が設置された。特約茶室の存在は長らく台湾社会ではタブーとして秘されてきたが、近年では実証的に掘り起こされ、また映画『軍中楽園』(ニウ・チェンザー監督、2014年公開)に描かれて広く知られるようになった。ところで戦後初期の金門における集落の軍事的転用について筆者は十分な情報を持ち合わせていない。そこで参考として沖縄での日本軍による集落軍事化をみてみよう。たとえば読谷村では、20年前に刊行された新しい村史で、沖縄戦の実相が具体的に復元されている。とくに驚かされるのは、『読谷村史』(第五巻資料編4 戦時記録上巻、読谷村役場、2002)に付属資料として同梱された、「読谷村の各字戦時概況図及び屋号等一覧表」である。日本軍は1943年夏に飛行場建設を開始しており、その工事に読谷村を含む地域住民を多数徴用していたが、44年6月からはいよいよ高射砲部隊・球部隊、8月からは山部隊といったように日本軍が村内に配備されていった(同書戦時記録 下巻24頁)。その実態を聞き取りによって事細かに再現しているのだ。
例えば国民学校は、将校・兵・徴用工の宿舎、病室、資材や弾薬の倉庫などを集約的に扱うのに都合がよかったが、それでは数が足りなかった。同様の機能を、まったく分散的に集落の民家にあてがうことがごく一般的に広く行われた。集落には字事務所があるが、これは食料倉庫や炊事場となるケースが多かったようだ。
集落の端っこにあるサーターヤー(砂糖屋)、つまりサトウキビを絞る小屋もいろいろな用途に使われたが、たとえば朝鮮人軍夫の宿舎とされるケースがある。ほかにもさまざまなものが集落のはずれに置かれた。慰安所はそのひとつだろう。本土や沖縄出身の慰安婦がいたのはテント張りや茅葺きの建物が多かったように見えるが、朝鮮人慰安婦が闘牛場の小屋に置かれた例がある。
日本軍が多数の沖縄住民を徴用して建設した飛行場の近くでは、集落内に航空兵や特攻隊員の宿舎、司令部や病院などの施設が置かれた。海辺には特攻艇の修理所があった。海岸のガマ(洞窟)はトーチカに改造される場合もあった。裏山には壕が掘られたが、その目的は防空、糧秣倉庫、トラック格納庫、対戦車壕、トーチカなどさまざまであった。高射砲のダミーが据えられることも多かった。
多数の民家が宿舎や弾薬庫などに使われた背景のひとつには、住人が本土、那覇、台湾、あるいは南洋に出ており不在の民家も少なくなかったことがある。戦争、さらには戦前の帝国日本がもっていた出稼ぎや移民のネットワークがそこに透けて見える。逆に、帝国各地から集落内に軍関係者が入ってきた。たとえば一口に兵士と言ってもいろいろな背景がある。南京大虐殺にかかわった部隊出身者もいた。北海道出身の部隊もあった。慰安婦も沖縄、本土、朝鮮などと出身地は一様でない。そもそも住民にも、応召して赴いた戦地から帰ったばかりの人たちもいた。たとえば中国戦線での日本軍の規律の緩みや虐殺・強姦の実態を目撃して沖縄に戻った、という人も。
戦争は人々を尋常でない力で動かし、出自の異なる人々の雑居状態を生み出す。戦略的に重視された「島」では、そうした異様な凝集が生じやすいのだろう。沖縄ではそれがごく普通の集落に現れていた。金門の場合も大陸各地から来た軍幹部、将校、兵士たちが、台湾人兵士たちとともに配備され、金門の人々とのあいだにさまざまに交差したに違いない。
戦争の可能性と不可能性
話を金門に戻そう。1958年、この島を前線とする国共の対立は異なる様相を帯びることになった。この年の8月23日、人民解放軍の砲撃部隊はこの日だけで3万発以上の砲弾を金門へ発射したのである。台湾社会では「八二三砲戦」として語られることになるこの「金門砲戦」は、10月5日まで続いた。「44日間、軍人も文民も、第一次台湾海峡危機後に各地域につくられた防空壕での生活を強いられた。人民解放軍が暫時休戦を宣言するまでの間に、約五〇万の砲弾が発射され、金門島は一キロ平方あたり三千発以上の砲撃を受けたことになる」。この間、アメリカが武器供与により国軍を支援。解放軍にはソヴィエトからの戦闘機供与などが行われた。米軍は、一時は事態を打開するためには上海など内陸部への核攻撃も辞さないと主張し、またもしそうなれば、すでに核武装していた解放軍によって台湾や沖縄、グアムなどが報復核攻撃を受けるだろうと予測されていた。
しかし現実にはソヴィエトによる抑制などもあって、10月28日に人民解放軍は「隔日砲撃」の方針を発表。そして砲撃は1979年まで続けられることになった。戦争はいわば薄く引き伸ばされたのである。北京政府も、台北政府も、国内大衆の熱狂と支持を維持するために、脅威を失うわけにはいかなかった。核戦争の潜在的可能性と、現実的な不可能性も考慮に入れるべきかもしれない。核は瞬時に破滅をもたらしうる。だからこそ突発的な衝突やその激化のリスクを抑制しながら戦争を常態化させる方向へと、政策は収斂してきたのではないか。こうした「引き伸ばされた戦争」ともいうべき日常の儀礼的軍事化は、第二次世界大戦後の世界各地の「前線」に多かれ少なかれ共通する性格かもしれない。
島社会のさらなる軍事化
いずれにせよ戦争の儀礼的継続は、島民の日常をむしろ深いレベルまで軍事によって構造づけることにつながったことをスゾーニは指摘する。「以降、金門における生活はさらに軍事化した。中国が金門への隔日砲撃継続を決定したことにより、日常生活のリズムは軍事的考慮に深く影響されるようになった。島内の建造物も大きな影響を受けた。解放軍の砲兵が金門の民家を砲撃目標にねらいを定めるために利用することを防ぐために、建造物の場所や高さが規定された。新たな民家はすべて防空壕を備えなければならなかったが、それは、一九六〇年代に島内へもたらされた電力と水力の供給を受けるための条件とされた。一九五八年以降の金門駐留部隊の増強は、島の経済面における軍隊への依存度をさらに高め、金門の多くの家庭では軍隊への物資や役務の提供が家計の基盤となった」。スゾーニはほかにも興味深い現象をいくつも紹介している。たとえば金門島では世界最大とも言われた拡声器を備えたラジオ放送局が稼働した。ヘリウム風船や宣伝ブイは、金門から大陸へ、大陸から金門へと放たれたが、詰め込まれた食糧や物資には毒が含まれている、言葉も思想的害悪であると双方で教え込まれていた。ますます戯画的なほどに手法は形式化され、ミラーリングされていった。漁師は宣伝ブイを漁の浮きに転用した。
「開発」や「近代化」が生活のすみずみに浸透する規律の標語となった。金門は貧困であったがゆえに、毛沢東による大躍進の失敗を横目ににらんだ蒋介石は、建設事業の数々によって島を開発し、島民の生活水準を劇的に引き上げることを重要な政治課題とした。
民衆の後進性は、衛生常態を悪くし、ペストを蔓延させるなど軍隊の力を削ぐと警戒された。そのため人々はネズミの捕獲運動に従わなければならなかった。ネズミの尻尾の提出が義務付けられ、提出できないと強制労働が課せられることもあった。尻尾の偽装、貸し借り、取引、さらには尻尾提出を免除されるための賄賂などが横行し、ネズミが入手できないと困るので衛生状態は必ずしも改善しなかった。そんなふうだから医師ではなく霊媒に頼る旧習も容易になくなりはしない。旧習といえば、国軍は島民の若年結婚を非近代的として批判したが、現地女性と駐留兵士の交際や結婚が増えていくと、現地男性やその親たちはむしろ島の女性たちを早く囲い込もうと躍起になった。
「地下金門」の構築
粛正之という人物が金門にやってきた。国民政府のベトナム支援任務のため南ベトナムで働いた後、1968年に防衛司令部の政治部主任として金門に赴任したのだ。粛は、彼地の反共プログラムに影響を受け、農家経営や農村開発への資金的な援助により信頼(同意)を調達する政策を金門にも導入した。彼はまたベトナムのゲリラにひどく心酔し、金門の島民を例外なく戦闘員とみなす「戦闘村」の政策を打ち出した。その一環として、島民は自身の集落に地下壕を掘ることを命じられた。ついで軍も地下要塞の建設を推し進めることになる。こうして赤土や花崗岩でできた島の大地に大小無数のトンネルが掘られていった。近代兵器が大量に動員される戦争であっても、市民・民衆や兵士たちの身体が追い込まれていくところはいつも大地そのもの、つまり地球が自らの構築活動によって生み出していった地形であり地質の構成なのだろう。
集落を歩くと、建物の建て替え時には地盤が陥没する可能性があるから注意、との政府の注意書きや公示の類を目にすることがある。また道路工事や開発事業で地表が削り取られ、地下壕があらわになる風景もあるようだ。さらに近年では「地下金門」などと銘打ったウォーキング・ツアーやセミナーが開催されたり、軍の小艇を格納する海沿いの地下桟橋でクラシック・コンサートが開かれたりもしている。
「地下金門」と呼ばれる、島のあちこちにひろがる蟻の巣状地下壕ネットワークの建設が、軍事的緊張が緩和していくなかで進められたことは興味を引く。高度成長による中産階級の成長と、民主化運動や独立運動の勃興、アメリカをはじめとする西側諸国からの民主化圧力の高まりといった内外の力に揺さぶられ、国民政府の基盤はぐらついていた。だからこそ金門を島ごと軍事化して対岸の脅威を演出する必要はむしろ70年代にこそ高まった、とみられている。台湾社会が70年代初頭までにかなりの自由化を実感しはじめていたのに対し、金門島は極端な維持を強いられた。軍事化は、集落の物的環境から、島民の生活や社会、そしていよいよ大地の加工へと展開していった。これらすべてが「島」という孤立し閉ざされた環境の内を掘るように進んでいったのである。
92年の戒厳令解除後、金門島の開放と自由化が急激に推し進められた。観光資源は自然と集落と軍事遺構である。島まるごとの軍事化が、自由な民間開発を抑制していたため、自然景観や伝統集落が、戦争の傷跡も含めてかなりよく遺されていたのである。
謝辞
本稿の執筆にあたり、曾逸仁先生(國立金門大學建築學系専任副教授、同大學戦地史蹟與閩南建築研究中心主任)からご自身の撮影された写真を提供いただき、また坑道の地質や工法などについてご教示いただいた。記して謝意としたい。
あおい・あきひと
1970年生まれ。建築史・建築論。明治大学教授。著書=『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、2005)、『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』(アセテート、2007)、『ヨコとタテの建築論──モダンヒューマンとしての私たちと建築をめぐる10講』(慶應義塾大学出版会、2023)。共著=『津波のあいだ、生きられた村』(鹿島出版会、2019)。共編著=『福島アトラス』(NPO法人福島住まい・まちづくりネットワーク、2017〜)ほか。
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Bibliography [3] Design of Battlefield (Museum on Violence)
/文獻介紹[3]關於戰爭遺蹟的設計或策展
HBH同人/HBH editor
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