生環境構築史

第6号  特集:
戦時下の生環境──クリティカルな生存の場所 Wartime Habitat: A Critical Place of Survival 战时生环境──临界性的生存场所

戦時下生環境ガイド[5]工場──封鎖による生存条件の損害

藤原辰史【HBH同人】

Guide to the Wartime Environment [5] Factory: Damage to Survival Conditions Due to BlockadeTatsushi Fujuhara【HBH editor】

戰时生環境導覽[5]工廠──封鎖對生存條件的損害

When we look into the world history of war, we often encounter the phenomenon of spatial blockade. Here I would like to mention only two specific examples from modern history. The first is the “war of attrition”, “Aushungerung” in German. This strategy has been particularly important in contemporary German history. During World War I, Germany suffered about 760,000 deaths from starvation as a result of the blockade of the sea by the British. To prevent a repetition of that tragedy, Nazi Germany sought to increase food production. On the other hand, during the war between Germany and the Soviet Union, it blockaded Leningrad, causing an estimated 600,000 to 1 million civilians to starve to death. The second was the blockade of factory facilities. The military blockade of the steel mills in Mauripoli, Ukraine in 2022, is probably fresh in the memory. However, the violence of blockade is not limited to enemy countries. After World War I, the Japanese Army secretly produced poison gas on Okunojima Island in Hiroshma and used it in large quantities during the Second Sino-Japanese War. Many workers on this island died or suffered from aftereffects because they could not tell the outside world, even though their bodies had been affected by the poison gas. The above-mentioned victims in confined spaces have been enormous, especially in the wars of the 20th century.


[2023.6.10 UPDATE]

戦争の歴史をひもとくと、空間の封鎖という現象にたびたび出会う。ここでは現代史の具体例を2点だけ挙げたい。ひとつは、兵糧攻めである。この戦法は、とりわけドイツ現代史において重要であった。第一次世界大戦時にイギリスによって海上封鎖を受けたことで、ドイツでは76万人の餓死者が生じた。その悲劇を繰り返さないために、ナチス・ドイツは食糧増産を目指す一方で、独ソ中にはレニングラードを封鎖し、60万人から100万人といわれる市民を餓死させた。二つ目は、工場施設の封鎖である。ウクライナのマウリポリの製鉄所の兵糧攻めは記憶に新しいだろう。ただ、封鎖の暴力が牙を向くのは、敵国に限らない。第一次世界大戦後、日本陸軍は、広島の大久野島で秘密裏に毒ガスを生産し、日中戦争でも大量に使用した。この島で働く多くの労働者が毒ガスで身体を侵されていたにもかかわらず、外部に伝えることができないため、亡くなったり、後遺症に苦しんだりした。以上のような閉じられた空間での犠牲は、とりわけ20世紀の戦争において甚大である。

はじめに

2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナの戦争のなかで、アゾフ大隊が拠点とするウクライナ南東部の港湾都市マウリポリの「アゾフスタリ製鉄所」の映像は繰り返し放映された。工場施設の広さは10㎢。ウクライナのみならず、ヨーロッパ全土を見ても、最大級の大きさの製鉄所だ。ここが、ロシア軍に攻められたマウリポリの最後の拠点となった。大量の砲弾を浴びてもなお、多くの兵士だけではなく、民間人がそこで抗戦していることは、世界の人びとを驚かせた。

立てこもったウクライナの兵士たちは、ロシア軍に降伏するよう通告されたが、徹底抗戦を続けた。2022年4月30日に、国連と国際赤十字委員会の仲介で1000人の民間人が避難してからも攻撃は続いたが、5月16日、残ったウクライナの兵士が降伏した。民間人が多く存在したのは、おそらく第二次世界大戦期に地下のトンネルが整備された上で、冷戦下に、核戦争を生き延びるために地下6階の要塞が築かれていたからである。複数のメディアによると、ここには、診療所、園芸施設、バーとカフェ、居住空間、機械室などがあり備えてあったと言われているが、ロシア軍が占領した後、そこには、地べたに毛布を敷いて暮らしていたり、オムツ代わりに袋を使っていたりした民間人の様子も伝えられた★1。

1930年、ウクライナ最大級のこの製鉄所であるアゾフスタリ製鉄所は、ソ連邦の一部であったウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に建設された。第二次世界大戦中にはナチス・ドイツが占領し、ここで軍需工場として使用されていたこともある。1943年9月にソ連軍によって解放され、製鉄所は再建される。この時に地下のネットワークの基礎が建造されたことは先ほど述べたとおりである。ソ連時代に、アゾフスタリ製鉄所はさらに拡張し、ソ連の鉄の生産を支えた。

ソ連崩壊後は、工場から排出される煙や廃棄物が周辺の大気や水圏などを汚染していたことが明らかになっている。

攻撃される「城(ブルク)」──第一次世界大戦

大規模な施設に立てこもった人々を攻撃すること、もしくは、そのような施設に立てこもって防戦することは、歴史のなかで幾度となく繰り返されてきた現象だ。いわゆる「兵糧攻め」である。兵糧攻めは、古今東西を問わず要塞や城が舞台となり、降伏をしないかぎり、蓄えておいた水と食料が尽きると、多くの餓死者が出る凄惨な戦いになった。なお、第一次世界大戦期の場合、連合国による封鎖は、ドイツに対する懲罰のため停戦協定を結んだ後も続けられ、とりわけ子どもたちが衰弱していった[fig. 1]。これについてはケインズなど連合国側からも多くの批判が出ている★2。


fig. 1──ハインリッヒ・ツィレ《ジャガイモ行列》
引用出典=Wikipedia Commons


第一次世界大戦期も、連合国のイギリスは、同盟国ドイツの戦力を弱めるため、海軍の船を用いて銃後全体への攻撃を行なった。すなわち、経済封鎖である★3。カナダやアメリカ、アルゼンチンなど中立国からの食糧や飼料を積んだ船を拿捕して、ドイツの栄養状態を悪化させる作戦である。これも戦後ドイツの健康庁の統計で76万人の餓死者が出たと言われている。他方で、報復のためドイツも潜水艦を用いて連合国の民間の船を攻撃したことで、ドイツほどではないにせよ、食料を含む物資不足に悩んだ。よって、第一次世界大戦のこのような様相は、「食糧戦争food war/Ernährungskrieg」と呼ばれることもある。

もちろん、これは従来の要塞や城の攻撃とは異なり、国全体への攻撃であるが、前近代まで続いてきた兵糧攻めの応用であったと言っても言い過ぎではないだろう。ちなみに、開戦当時のドイツは、これまで国内で対立していた保守勢力と社会民主党の勢力が共通の敵を経て一時的な協力を認めることを、「城内平和Burgfrieden」と呼んでいた。

レニングラード包囲戦──第二次世界大戦

第二次世界大戦の「兵糧攻め」で最も有名かつ凄惨なもののひとつは、1941年9月8日から1944年1月27日まで続けられたドイツ軍とフィンランド軍によるソ連のレニングラード包囲戦であろう★4。両軍によって交通網が遮断され、中立国からの食料補給ルートが絶たれた上に、電気、ガス、水道などのインフラや食料備蓄施設への攻撃がなされた。レニングラード市はすでに導入していた食料配給をさらに減少させたが、とりわけ肉体労働者には酷な量でしかなかった。900日近くのドイツ軍による封鎖によって、当時319万人の都市だったレニングラードで、60万人から100万人の市民が亡くなったと言われているが、死者の数字は現在も確定されていない。明らかに包囲による飢餓を狙った兵糧攻めであった。ドイツは「封鎖シンドローム」と後世の歴史家に呼ばれる第一次世界大戦時に植え付けられた飢えの恐怖が地下水脈のように存在し★5、ナチス・ドイツはとりわけ農業政策の目標として封鎖に負けない食糧生産を目指していたのだが、第一次世界大戦の時に自国が苦しんだ包囲戦をソ連で再現したことになる。

日々、家族や友人が栄養失調とそれによる感染症などで衰弱し死んでいく地獄のような惨事は、レニングラード生まれのドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチが包囲されるなかで作曲し、1942年8月9日には砲弾が聞こえる市内でも演奏された交響曲第七番《レニングラード》と共に語り継がれている[fig. 2]。

fig. 2──ショスタコーヴィチ交響曲第七番《レニングラード》


地形と戦争という本特集の視点からしてとりわけ重要なのは、冬に、レニングラードとソ連のあいだに広がるラドガ湖の存在だろう。広さ16,000㎢、平均の水深が50mの現在のロシア共和国最大の湖である。このラドガ湖が冬に厚さ1mほどに凍結し、湖の氷上のルートを用いて、馬橇(うまぞり)やトラックで物資が運ばれたのである。「生の道」と呼ばれたこの道は[fig. 3]、しかしながら遮るものが何もなく空襲や砲撃にさらされやすいルートでもあり、天候によって氷が薄くなるので、運搬を担う人びとにとっては命懸けであった。なお、スターリンはのちにレニングラードを「英雄都市」と名付け、包囲戦を称揚したが、市民の過酷な経験は容易には癒やされないものだった。


fig. 3──1943年4月の「生の道」
撮影=Администратор Елена
引用出典=Wikipedia Commons

大久野島の毒ガス工場

少し視線が変わるが、瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのじま)もまた、閉じられた空間であり生存条件が危機に晒され続けた空間という意味では特質すべき場所だろう★6。面積は0.7㎢で、大久野島は、もともと明治期に陸軍によって作られた要塞の島であった。今でも、砲台などが残っている。1927年に、ジュネーヴ協定違反でありながら建設が始まり、1929年に毒ガス生産を始めた。地図上から消したり、木を生やしたりしてカムフラージュをすることで極秘裏に毒ガスを生産してきた工場群が存在した。1937 年ごろには約400人が毒ガス製造に従事し、月産400tを産出していた。

戦後、アメリカ軍によって施設は破壊された。今でも、多くの巨大な施設の建物が廃墟になったまま残っており、歩いて見学することができる[figs. 4, 5]。島の中心部には毒ガス記念館が存在し、通常であれば国がきちんと支援をして歴史学的見地から保存すべきであるが、国は関与しておらず、休暇村大久野島が指定管理者として管理をしている。ちなみに、東京大空襲資料館やひめゆりの塔の資料館も同様であるが、日本の優れた博物館の多くが、日本政府の現代史に対する無関心あるいは関心の偏りゆえに公共施設ではない。にもかかわらず、高いクオリティを保っているのはそれらの生存者たちとその支持者たちによる粘り強い調査研究によるものであり、驚嘆すべきことだといえよう。




figs. 4, 5──大久野島の毒ガス関連施設跡
著者撮影


第二次世界大戦期、大久野島は、敵国に封鎖されたわけでもなく、敵国から空襲を受けたわけでもなく、また食料補給が絶たれたわけでもない。広島の近辺は多くの軍事施設があり、空襲を浴びていたが、ここはなぜか爆弾が投下されていない。とはいえ、大久野島には、地下施設が建造され、空襲によっていつ毒ガスが漏れ出すか戦々恐々としながら生産を続けた。攻撃されるかもしれない、という恐怖感や、軍法に則って秘密裏に生産していることの緊張感は、間違いなく、多くの工員たちに深い傷跡を残しただろう。

日本軍によって厳しい管理下に置かれ、工員たちはほぼ例外なく毒を浴び、体調を崩した。戦時中に関連の死者は3名。それとともに、生産された毒ガスの多くは、中国戦線で使用され、多くの中国人たちに甚大な危害を加えた。

毒ガス兵器を生産する過程が国際法違反のために内密にされた、島に働きにくる工員たちが情報を外に漏らしてはならないため、ある意味の封鎖空間で働かざるを得なかった。そのなかで、大久野島で働いていた従業員たちの多くが、戦後も呼吸器系や消化器系の病気で苦しんでいる。軍事は常に機密事項を重視する。秘密漏洩は勝敗に関わるからだ。ただ、機密は、往々にして、国による自国の人々の損害までも覆い隠すし、外国での犯罪的な行為を隠蔽する。20世紀前半の毒ガスはまさにその典型的な兵器だといえよう。

おわりに

軍事は人を攻撃するだけではない。生存条件をまるごと攻撃し、そのなかで人の致死率を上げる、という空間的な方法がとりわけ第一次世界大戦から選ばれてきた。人間の生きる条件である空気を毒ガスで満たす、という方法にせよ、人間の条件である食を得られなくする、という方法にせよ、どれもが生存条件への攻撃だった。

この方法は、攻撃側の殺人の感覚を、一対一の戦いよりも鈍麻させる。機関銃が殺す側の感覚を低減させるのに一役買ったように★7、毒ガスも経済封鎖も、殺している側の殺している感覚をかなり低減させた。

また、戦線が大きく拡大するなかで、毒ガスや機関銃のみならず、空襲も多用されるようになる。狙った人ではなく、ある区画全員を老若男女を一律に殺害していく兵器であるが、殺される側にとってみれば、突然の攻撃で意表を突かれると、パニックに陥ることも多い。このような戦場のリアルからの戦闘行為の乖離は、現在のウクライナでの戦争にも繰り返しみられる。




★1── Rhodri Davie, Yaroslav Lukov, “Mariupol Steelworks: 'We Have Wounded and Dead Inside the Bunkers'”, 21 April 2022, https://www.bbc.com/news/world-europe-61183062(2023年6月10日閲覧)、読売新聞オンライン「マリウポリの製鉄所の下、ソ連時代に建設の『地下要塞』」(2022年4月19日)https://www.yomiuri.co.jp/world/20220419-OYT1T50039(2023年6月10日閲覧)、時事通信「マリウポリ地下住民「太陽浴びたい」──袋でおむつ代用、水は残り1週間」(2022年4月25日)(https://www.jiji.com/jc/article?k=2022042500694&g=int)など。
★2──J・M・ケインズ『ケインズ全集2巻──平和の経済的帰結』(早坂忠訳、東洋経済新報社、1977)
★3──Belinda Davis, Home Fires Burning. Food, Politics, and Everyday Life in World War I, Berlin (Chapel Hill, 2000), Offer, Avner, The First World War. An Agrarian Interpretation, Oxford; New York (Clarendon Press & Oxford University Press, 1989). Vincent, C. Paul, The Politics of Hunger. The Allied Blockade of Germany, 1915-1919, Athens (Ohio University Press, 1985). 拙著『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』(人文書院、2011)
★4──マイケル・ジョーンズ『レニングラード封鎖──飢餓と非情の都市1941-1944』(松本幸重訳、白水社、2013)
★5──Horst Gies, Gustavo Corni, Brot, Butter, Kanonen: Die Ernährungswirtschaft in Deutschland Unter Der Diktatur Hitlers, Berlin (Akademie Verlag, 1997).
★6──たとえば、中国新聞「毒ガスの島」取材班『毒ガスの島──大久野島悪夢の傷跡』(中国新聞社、1996)
★7──ジョン・エリス『機関銃の社会史』(越智道雄訳、平凡社ライブラリー、2008)



ふじはら・たつし
1976年生まれ。食と農の現代史。京都大学人文科学研究所准教授。著書=『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』(水声社、2012)、『トラクターの世界史──人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中央公論新社、2017)、『戦争と農業』(集英社インターナショナル、2017)、『給食の歴史』(岩波新書、2018)、『分解の哲学──腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社、2019)など。編著=『第一次世界大戦を考える』(共和国、2016)など。共訳書=フランク・ユーケッター『ドイツ環境史 エコロジー時代への途上で』(昭和堂、2014)など。

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Bibliography [2] Photographic Collections and Illustrated Books
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Bibliography [3] Design of Battlefield (Museum on Violence)
/文獻介紹[3]關於戰爭遺蹟的設計或策展
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