生環境構築史

第6号  特集:
戦時下の生環境──クリティカルな生存の場所 Wartime Habitat: A Critical Place of Survival 战时生环境──临界性的生存场所

戦時下生環境ガイド[2]穴──沖縄戦とガマ

青井哲人【HBH同人】

Guide to the Wartime Environment [2] Caves: The Battle of Okinawa and ‘Gama’(Karst)Akihito Aoi【HBH editor】

戰时生環境導覽[2]洞穴──沖繩島戰役和石灰岩洞穴

The so-called Battle of Okinawa, which took place from April to August 1945, can be understood as a process in which the environment of the island, militarized by the Japanese military since around 1943, was further repurposed by the US military. However, this was limited primarily to airports and related facilities. After the US military landed in Okinawa, the civilian population abandoned constructed environments such as cities and villages and sought refuge in natural caves called “gama,” formed by the erosion of limestone layers. While the Japanese military had converted the thick mudstone layers beneath the limestone into military bases, as the situation worsened, they infiltrated the “gama” and encountered the US military there. In this way, a densely concentrated state of different groups within the narrow and dark natural “caves” emerged, which led to tragic events such as mass suicides.


[2023.6.10 UPDATE]

シムクガマ

沖縄本島中西部、読谷村の波平集落に、シムクガマと呼ばれる天然洞窟がある。沖縄戦の記憶を伝えるガマとしては、今日入洞できる数少ないもののひとつである。

1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸したのは他ならぬこの読谷村の海岸からであった。そのとき、シムクガマには約千人が避難していた(近くのアガリシムクガマとあわせて約1,420名)。ある避難者の証言を引いてみよう。証言者の与那覇吉秋さんは1935年生まれとあるから、9〜10歳頃の経験ということになる。

ガマの中は真っ暗だったので、皿などに油を入れて(松の油や菜種油だったと思う)灯芯に布を使って明かりを灯していました。それをあちこちに置いて、明かりにしていました。入り口の近くは光が入るけれど、奥の方は昼か夜かさっぱりわからないし、天井に厚みがあったのか、ガマの外の音は全然聞こえませんでした。外がどうなっているのかわからなくて、私は「入口の方に行ってみたいなあ」とよく考えていました。排泄は、小さな川の流れを伝って、誰もいないガマの奥の奥まで行き、そこでしていました。

『読谷村史』第五巻資料編4 戦時記録下巻(読谷村役場、2004)758〜764頁


集落から西へ下ると木立のなかにひっそりとシムクガマが横広に口を開けているのが見える。小川の流れが入り込んでいる。足を踏み入れると内部はまもなく漆黒の闇。証言のとおり音もなくなる。懐中電灯で照らしながら恐る恐る歩くとしばらくして行き止まりとなったように見えたが、その先があるらしい。このガマの全長は何と2.6kmに及ぶという。


fig. 1──シムクガマ(読谷村波平)。左方の台地から下ってくると、洞窟の口があり、右がその奥 以下すべて筆者撮影



fig. 2──シムクガマ(読谷村波平)。上の写真とちょうど正反対にカメラを構えた。右から下りてきて左に入っていく




figs. 3, 4──シムクガマ(読谷村波平)。外の光が届く最初のホール。水道に沿った幅の狭いテラスの左右には、こうしたテラス群がそれなりの単位をつくって連なる



fig. 5(左)──数十m進んで後ろを振り返るがすでに漆黒の闇。フラッシュを焚いて水の流れを撮った



fig. 6(右)──ほぼ同じ地点からガマの内奥部をみる。もう少し進むと行き止まりとなる


与那覇さんはこのガマに8日間滞在し、皆とともに米軍に投降した。戦時下の沖縄の人々は、もし米軍に投降すれば残忍な虐殺や強姦を受けると教えられ、自死のために手榴弾や青酸カリなどを渡されていた。だがこのシムクガマに身を寄せ合った村人のなかにハワイ移民経験者がおり、彼らが他の者を説得し、米軍との交渉を担ったため被害者を出さなかった。よく知られたこの話はやや単純化される傾向があるようで、たとえば上記の与那覇さんの父親は中国戦線に従軍経験があり、日本軍の残忍さをよく知っていたがゆえに米軍への投降を選んだ面もあったようだ。


fig. 7──奥から戻り、入口が見えた。水に沿ったテラスとその左右上段のテラスという構成がわかる

チビチリガマ

同じ読谷村波平地区のチビチリガマでは、約140名のうち83名が集団自決で亡くなった。集落の位置する台地上から深さ10mほど刻み込まれたV字型の谷に水が流れ、ガマの口へと吸い込まれて消える。「尻切れ=チビチリ」はそのカタチをとらえた呼称だ。上陸直後にここへ迫った米兵が「デテキナサイ、コロシマセン」と呼びかけたのに対し、住民の一部が竹槍で攻撃。機関銃を撃たれ、手榴弾を投げ込まれ、重症を負った2名が死亡した。翌日、中国戦線の経験をもつ男性が自決を決意、ふとんや毛布等を山積みにして火をかけた。今度は大陸での日本軍の残虐ぶりの記憶がまったく反対に働き、パニックを促した。教え込まれていた「自決」への賛否で避難民らは分裂し、激しい口論のなか、母親による娘の殺害や毒薬による自害などが起き始め、14〜15人の自決者を出した。そこに前日に続く米軍の呼びかけがあり、混乱は極まる。

このガマで計83名の自決が起きていたことが判明したのは、何と38年後の1983年、ようやく調査と証言が始まった時のことだった。現場にはいまも息を飲むような緊張が充満している。周囲の台地から落ち窪み、ガジュマルに覆われた広場に、襞の深いガマがその口をいくつか開けているのだが、遺族の意志により入洞は厳しく禁止されている。遺族会が建立した「平和の像」は一度右翼に破壊され再建されたものだ。ほかにもさまざまな図像と言葉がそこここにあり、それらが悲惨な出来事の記憶を伝え、増幅しつつ、かつ場所とともに封じ込めるかのように感じられた。

ガマの構築/ガマからの構築

沖縄本島南部の地質はヒシモチに似た3層構成と表現されることがある。厚さ1kmにも及ぶ青黒い泥岩層の上に、白い石灰岩層が厚さ数十〜百mほど乗り、表層は薄っすらと赤い土壌に覆われる、というのがそれだ(沖縄第四紀調査団・沖縄地学会『沖縄の自然 その生いたちを訪ねて』平凡社、1975)。

沖縄といえば多くの人が思い浮かべる赤瓦は、このうち青と赤、つまり下と上の粘土をまぜて焼いたものだ。だが、旧石器時代から人々が寄り付いて生きてきたのは真ん中の白い石灰岩層といってよいだろう。それこそが生環境構築の基層的な素材だ。

石灰岩層は水の浸食作用によって自身の内にトンネルのような水の道を無数に生んでいく。そのうち主要なものが次第に押し広げられ、天井が崩落すると、台地の上からみれば平たい大地に穴が空いたようになるだろう。そこへ下りて奥へ進めばどこかで突き当たる。しかし水はその先、あるいはさらに下の層へと流れ落ち、次の洞窟を発達させているかもしれない。こうしたガマのネットワークの最下面は、もちろん水を通しにくい青黒い泥岩層の上面である。

沖縄本島南部の台地の下では、こうした穴が無数にうねり、ふくらんだりすぼまったりしながら繋がり合っている。人は昔からその口をみつけ、そこに水を求め、風雨から身を守る屋根や壁を見出した。そこに火をくべ、そこで眠り、遺体をそこに葬って骨を拾った。やがて人は段丘の崖や洞窟の壁から石灰岩を切り出し、崖の前に壁を立て、あるいはテラスを広げるようになる。水の道を整え、崖の前方のひろがりを灌漑された農地に置き換えていくだろう。それらを束ねるグスク(城塞と宮殿のコンプレクス)は、ちょうど段丘状の地形の頂点をおさえ、地形を束ねるように構築されるだろう。それ自体が軍事的な環境編成であることはいうまでもない。しかし太平洋戦争の進展がそれらすべてを軍事的に転用したり破壊したりしてゆくと、人々は原初の生環境へと縮退していく。いや、かつて人々が寄り付くこともなかったような奥深い漆黒の闇へとさらに潜り込むことを余儀なくされたのである。

南風原陸軍病院

他方、沖縄戦の日本軍側の司令部は首里に置かれた。首里城の直下である。2019年に焼失した正殿等の建造物の復興事業が2026年の完成・再公開をめざして進められているが、おそらくそのタイミングで地下の基地遺構も部分的に公開されることになるようだ。

これをヒシモチと照らし合わせるとこうなる。まず首里城は白い石灰岩層に乗っており、しかも比較的平らな地形の沖縄本島南部にあって際立った高みにある。これは沖縄のグスクに通じる一般則だ。もちろん、石灰岩層である以上は内部に無数の穴のネットワークがあり、グスクの内あるいはすぐ外に空いた穴から水脈のレベルに降りていくことで飲水や儀礼用の水を得ていた。対して司令部壕は、その直下、つまり青黒い泥岩層の最上部を手で掘り進んでつくられた。

石灰岩のガマは自然のメカニズム(大地の自律的な構築運動)がつくり出したもので、人はその「口」をいくらか広げて出入りしやすくするなど多少の加工を施す。ゼロからトンネルを掘り込んだわけではない。戦時下の避難生活では、洞窟内の天然テラスをいくらか整えたり、石積みを追加して間仕切りとしたり、天井の薄いところを突き抜いて通気孔を開けたりしていた。

対照的に島尻層とも呼ばれる泥岩層は、沖縄ではクチャともいわれ、水を含めばやわらかい。支保工を組みながら、ほぼ整形の断面でまっすぐ掘り進んでいくことができる。多くの場合、グスクは尾根に沿ってタテに展開するが、日本軍基地は尾根に対して両側の斜面に口を開け、尾根に直交して壕をいくつか掘り込む。それらはおおむね平行するので、これらを再び直交する連絡壕でネットワーク化していくのが基本だ。嘉数、浦添などの山稜でも同様の工事が行われた。


fig. 8──南風原町の陸軍病院(再元展示)南風原文化センター内


南風原町の陸軍病院跡もまた、同じ方法で構築された壕群である。陸軍病院はもともと那覇市内にあったが、1944年10月10日のいわゆる「十十空襲」で那覇が焼け野原になったために南風原に移された。ここは首里の丘も見通せる山上だ。その内部に掘り込まれた野戦病院としての壕に、沖縄の優秀な女学生たちが学徒隊として徴用され、傷病兵の手当に従事した。そして戦局がさらに激化し、軍とともに南部への撤退が決まる。

その移転先が、次にみる糸数のアブチラガマであった。

アブチラガマ

読谷村のガマが沖縄本島上陸直後の状況を物語るとすれば、反対に最終局面の舞台のひとつとして広く知られているのが最南部の玉城村糸数にあるアブチラガマである(現南城市)。戦後、平和学習や修学旅行の体験プログラムが比較的早期に整備されたことで有名になった。

全長270m、いくつかのホールが立体的に連結した迷宮である。俯瞰的な地図を頭に入れて歩いてもおそらく方向感覚を保つことは難しい。なお写真撮影は認められていない。

このガマは、住民が避難先にしていたのを陸軍が奪ったとする文献もあるが、沖縄戦まで付近でも知る人はほとんどいなかったらしい。見学ルートの出口付近に、大地に顔を出した上層のガマがあり、そこに慰霊碑が置かれているが、昔から住民が知るこの「上のガマ」ですら、「恐ろしくて魔物がいるといって、地元の人はこの付近にあまり近寄らなかった」という。戦火が激しくなった後、それらの下にひろがる奥深い洞窟の口を陸軍兵士たちがタガネと大ハンマーで砕いて広げ、道をつけた。

南風原から南下してここへやってきたある女性の記憶を引用してみる。

先ず驚いたのは天井が高く広々とした上、電灯も煌々と輝き、みんな夢心地で奥へ奥へと入って行った。つき当りに臼やきねがあり1人の女性が搗き終わったお米を臼から取り出しているのをちらっと見たが、その女性は2度と現れなかった。そこから更に左へ曲がり奥へ行くと2、3メートル下には地下水が小川のように流れ、そこには井戸もあり2人こぎのポンプまで据付けてあった。汲み上げた水は通路脇にある製糖工場用の大きな四角型の鍋に溜めるようになっていて、跡では2名1組になり、当番制で水汲みをやった。その向かいが炊事場でガマが6つと大きい鍋(シンメーナービ)も6つあった。食糧さえあれば壕内の生活に心配ないと思うような堅固な壕で、どこを見ても別世界、みんな手を取りあって喜んだ。

自然のガマは鍾乳石から絶えず滴が落ちるので、かやぶき屋根の部屋が6、7棟もあり、私達に与えられた部屋は2階建ての2階の方で、2、3日は床の上に思う存分手足を伸ばして睡眠をとることができた。しかし日にちが経つにつれ、南風原陸軍病院から送られ来る患者は重症者が多く、後で分った事だがこれはみんな沖縄の防衛隊の方々が弾雨の中を担送したそうで、看護に気を取られ全く知らなかった。運ばれて来た患者は「今頃このような天国もあったのか。」と喜んでいた。

この壕に来た初日地下の街のように煌々と輝いていた電灯は、その夕方美田部隊の兵隊が戻って来てすべてのものを持ち去り、壕内は一寸先も見えない真暗闇となった。昼夜の別がつかずトイレ近くに直径1.5メートル位の空気孔があったので、その下へ行き上を仰いで昼夜の識別をしていた。

『アブチラガマ(糸数壕)』(糸数アブチラガマ整備委員会、1995)46頁


証言者は宮城トヨさん。当時20歳。ひめゆり学徒隊の一員であった。沖縄戦を戦ったのは帝国陸軍第32軍だが、兵力不足であったため沖縄県民を徴集して組織された防衛隊がこれを補った。中学校男子を組織した勤皇隊、女子生徒を動員した学徒隊なども軍隊を構成したのだ。さきにアブチラガマについての証言を引用した少女もそのひとりだった。傷病兵たちを担送する兵たちとともに深夜に徒歩移動をしてアブチラガマにたどり着いたのだった。その間、光は米軍の照明弾だけであった。闇のなかで働き、闇のなかを歩き、もうひとつの闇のなかへ。

防衛隊長としてやはり南風原から移動してきた池宮城秀意さんの証言も引いてみよう。

糸数の壕は、平らな地面にぽっかり穴があいたものだった。人間ひとりがようやくくぐれるほどの穴を手さぐりで行くと、地下に広い天然壕があった。(中略)天然壕は奥に入っていくと、いくつにも分かれていた。(中略)世界が平和であればコウモリしか住まない洞穴にローソクや石油灯心の手製ランプがともって無数の人間がうごめいていた。何百人あるいは千人を超える人数だった。移送された患者たちは病棟ごとに区分され、天然号の迷路を、右に左に手さぐりで配置された。この地下壕に、病院本部の全患者を移送する計画のようであった。(中略)薄暗く、じめじめした中には頭や手足に巻いた白い繃帯〔包帯:引用者注〕だけがくっきりと浮かび上がっている。顔は見えずにうめき声だけあげている傷病兵がいっぱいうごめいていて、それに罵言と呪いの叫びが工作しているがよく聞きとれない。頭の上には鍾乳石がいろいろの奇怪な形相でぶらさがっている。これは「地獄絵」そのままだ、と私はひとり心のなかで思った。手や足のちぎれた者、顔を砲弾や銃弾で傷つけられた者、ズボンだけのあるいはシャツだけの半裸の男たちの群、その形相だけでも世の常でないところへ、耳をすますとようやく聞きとれる言葉が、これまた、呪いと恨みごとだけである。(中略)何が天皇陛下のためだあ。おらが死んだら、天皇陛下はおちらの畑耕してくれっか。

池宮城秀意『沖縄の戦場に生きた人たち』(サイマル出版会、1968)84〜85頁


陸軍が入り込んで構築した、いわば基地化したアブチラガマには避難住民もおり、そこに病院も移設された。「煌々とした」町に見えたのも束の間、やがて米軍が迫ると照明も消される時間帯が増え、彼らの投降勧誘や、通気孔を利用した火炎放射、ブルドーザーを使った出入り口の埋め立てが続くようになる。沖縄戦、あるいは軍事化された沖縄の構図がすべて雑居的に凝縮されたかのような様相がそこにあった。

運動としての記録

アブチラガマの実相は、70年代に石原昌家と石原ゼミの「記録」によって詳細に明らかにされた(例えば石原昌家『虐殺の島───皇軍と臣民の末路』(ルポルタージュ叢書7、晩聲社、1978)。私見ながらそれは50年代以来の全国的な「記録」の運動に連なるものであると同時に、沈黙のなかから記憶を呼び戻すという沖縄独自の運動的性格をもっていた。さらに、本土返還へむかう「日本ナショナリズム」の高揚と、それに対する反発の鋭い緊張のもとで、そしてベトナム反戦運動とも交差しながら沖縄戦が回顧されていったことはけっして無視できない。われわれ沖縄人は日本人以上に本土防衛のために戦い犠牲を出したのだ、というナショナリズムと、日本兵たちのあの残虐さを思い出せ、という反発。

そうしたなかで、『虐殺の島』をはじめとする石川らの成果は、戦前からの村の支配関係が沖縄戦を経て戦後にどのように連続するか、それが沖縄戦の経験に関する語りにどのような陰影を与えるか、といった独自の社会学的な問題意識に特徴があった。そしてもうひとつの特徴として、略測量によって概括的な平面図を描き、そこに雑居状態の緊張、死臭、空気抜きから差し込む光や爆薬の匂いといったものをプロットしてみせたことも特筆したい。「アブチラガマ社会」の帰趨については石原らの幾冊かの著書に委ねよう。

他方、やや遅れて南風原高校の教諭であった吉浜忍らが展開した記録運動も重要だ。彼らの運動は教育と一体的に進められ、地域ぐるみの運動へと展開していったことに独自の特徴がある。全県的な地方史編纂そのものが沖縄戦を語り直す運動という側面を持ちながら分厚く、裾野広く展開してきたのも沖縄的戦後の特徴だろう。



謝辞
本稿の執筆にあたり、南風原の地域運動をはじめ、各地の地方史編纂を通して沖縄戦史の掘り起こしと教育を引っ張ってこられた吉浜忍先生と、社会学の立場から沖縄戦と戦後史の関係を鋭く問うておられる秋山道宏先生に大変貴重なお話をうかがった。記して心から感謝する。



あおい・あきひと
1970年生まれ。建築史・建築論。明治大学教授。著書=『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、2005)、『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』(アセテート、2007)、『ヨコとタテの建築論──モダンヒューマンとしての私たちと建築をめぐる10講』(慶應義塾大学出版会、2023)。共著=『津波のあいだ、生きられた村』(鹿島出版会、2019)。共編著=『福島アトラス』(NPO法人福島住まい・まちづくりネットワーク、2017〜)ほか。

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/文獻介紹[3]關於戰爭遺蹟的設計或策展
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