生環境構築史

連載

鏡の日本列島8:『最果てが見たい』──それぞれの富士

伊藤孝【HBH同人】

Mirrored Japan 08: “I want to see the very end”—Each Mt. FujiTakashi Ito【HBH editor】

镜中的日本列岛-8:“我想看到最后”——每座富士山

Everyone, more or less, wants to see the tip. Both horizontally and vertically. For example, the vertical tip of the Japanese archipelago is Mt. Fuji. Mt. Fuji has attracted many climbers and has become a subject of both art and literature. It also became an object of faith. And it’s not something special; when we see Mt. Fuji in our everyday lives, it just catches our eye. Based on the current standards of beauty, Mt. Fuji is magnificent.

However, considering it on a geological time scale, we can see that this beauty is fleeting. Mt. Fuji was a mediocre low volcano for hundreds of thousands of years after its birth. About 100,000 years ago, it took on almost the same shape as it does today, and over the next 10,000 years, the surface was thinly coated. This is the completion of Mt. Fuji’s current shape.

If the typical life cycle of a stratovolcano on island arcs applies to Mt. Fuji, its current beauty will not last forever. It is just a coincidence that when Mt. Fuji is at its most beautiful, the Japanese archipelago has its highest population ever, 120 million people. We had a fleeting opportunity to see the archipelago’s highest peak in all its symmetry.


[2024.5.31 UPDATE]

はじめに

椎名林檎の「最果てが見たい」(2015)は、

あの山越えて
まだ見ぬ向こう側へ
何が在るのか知らない
突き止めたい

ではじまる★1。ほんと、これだ、と思う。われわれは多かれ少なかれ、このような気持ちを持っている。なので、なんの予備知識もなし、下調べもせずに、どこかを訪れた場合でも、時間の許す限り先っぽ、先っぽへと歩みを進めてしまう。いったいそこはどういうところなのだろう、そこからの景色はどんなだろう、それを確かめないことには、どうにも落ち着かない。

日本語では水平的な先っぽに「岬」「崎」「鼻」などという地名がついている。私はライダーではないが、道が続いている限り、バイクに乗る人たちがこれら先っぽに吸い寄せられている様を何度も目にしている。それがより極端に現れたかたちのひとつが、常陸国が生んだ巨人、間宮林蔵による間宮海峡の発見・確認だろう。文化6(1809)年、彼は、樺太(サハリン)の西岸を北へ北へと進み、それが大陸から切り離された島であることを確認した。

先端へ達したいという衝動は、もちろん垂直方向にも発揮される。チョモランマは、未踏峰ではなくなってからすでに70年以上経過しているが、今現在も、世界中の多くの登山家を引きつけている。また、「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われた英国の登山家ジョージ・マロリーが発したとされる「そこに山があるから」(Because it is there)★2も、特別な理由なしに先端へと向かう人間の心理を端的に表現している。これは、世紀の誤訳ともいわれているが、このシンプルなやりとりが広く流布したのは、登山をする人以外の一般人であっても、潜在的に先っぽに達したいという気持ちを有しており、それを揺さぶったからだろう。

このようにいくつかの地形的な先っぽが存在するが、今回は、垂直的な先っぽ、そのなかでも高まりの方に着目し論じてみたい。対象とするのは、日本の最高峰富士山である。

日本最大のでっぱり──富士山

富士山はなにかと気になる存在である[fig.1]。新幹線に乗って弛緩していても、ふいに富士山が目に入ると覚醒する。そしてつい凝視してしまう。それはなにも自分が地質学に関係した職業についているからではない。我に返ると、自分の周りにも同じように見つめている人、さらにはスマホで写真に収めている人の存在に気付く。また、飛行機に乗っていて、今、窓の外にきれいに見えることを、機長がアナウンスをしてくれるのも富士山だけだろう。皆、富士山を見ていたいのだ。


fig.1──夕暮れの富士山。2023年12月24日、東京湾上空より撮影


日本人ばかりではない。海外からのお客人も富士山頂に行かずとも、遠方に眺めたり、5合目に車で登るだけでも一様に喜ぶ。そしてこれは、現代に限ったはなしではない。たとえば、幕末から明治にかけて、日本に長く滞在した英国のアーネスト・サトウは、富士山を背景にした江戸湾周辺の眺めを、「この景色に勝るものは世界中どこにもないだろう」と絶賛している★3。

その一方、江戸期に12度ほど来日した朝鮮通信使の一行は、瀬戸内、とくに鞆の浦の景色に賛辞を惜しまなかったことと対称的に、富士山の景観をまったく評価しなかった★4。朝鮮半島に分布するもっとも高い山は白頭山(標高2,744m)である。富士山同様、活火山であるが、現ロシア国境に位置している辺境の山であり、ほとんどの朝鮮通信使らは直に見たことはなかったろう。海抜ゼロmから山裾が広がる巨大な単独峰・富士山は、彼らにとって、完全に異質な存在に映ったはずだ。このエピソードは、ビートルズが出始めた頃の世論、とくに音楽そのものだけでなく、彼らのファッション等に対する当時のエスタブリッシュメントからの辛辣な批判★5、電気楽器を導入し急速にスタイルを変え続けていたマイルス・デイヴィスに対するジャズ批評家の混乱・批判★6などを想起させる。価値基準を測る尺度から大きく外れている、もしくはものさしそのものが存在していない場合、往々にしてそのようなことは起こる。

ちなみに、朝鮮通信使の富士山観について触れたのは、当時の朝鮮半島の人たちが自然美を鑑賞する目がなかった、ということを述べたいからではない。ヨーロッパにおいても、山岳が壮麗で美しい存在として認識されたのは、それほど古い話ではない。たとえば、17世紀の英国の詩人たちのなかには、山は自然を汚す「いぼ、こぶ、火ぶくれ、腫れもの」という捉え方まで存在していた★7。風景を主体として描く絵画もフランドルやドイツなどでは16世紀にその萌芽が見られるが★8、17〜18世紀にかけて、ヨーロッパ各地での古典的風景表現の時代を経て、ロマン主義的な美的規範として標準となるのは18世紀末〜19世紀にかけてである★9。富士山を絶賛したサトウはあくまで19世紀人であり、その時代の文脈で自然景を鑑賞したことになる。

漱石の富士、太宰の富士

日本では少々状況が異なる。日本人は近世より遙か以前から自然を独特な観点から眺めていた。それは、信仰の対象や歌枕の風景であった。富士山を詠んだ和歌はいったいいくつあるのだろう。そのような基礎の上に外からの影響として、近世後期には漢詩文的な世界、さらに近代以降、西欧のロマン主義的な風景観を受け入れてきた★9。

風景が歴史的・文化的な背景をフィルターにした「見え方」である以上、当然、そこから外れて眺めてみたい、という衝動も生じうる。たとえば、太宰治は『富嶽百景』のなかで、御坂峠、天下茶屋からの富士山と対面した主人公「私」に、

「あまりに、おあつらひむきの富士である。」
「私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。」
「どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。」

と言わせている★10。

夏目漱石の『三四郎』では、三四郎が大学入学のために熊本から上京する長距離列車の車中で出会った広田先生が、こう語っている★11。

「あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」

日本人自らが創意工夫を重ね、苦労の末に作り上げたものではなく、自然物としてたまたまそこに存在している富士山を、日本のシンボル、自慢できるもの、として奉る風潮を皮肉っているわけだ。三四郎はすっかり面食らう。

しかし、明治23(1890)年7月、これは『三四郎』の連載がはじまる18年前にあたるが、漱石が正岡子規に宛てた手紙には、

西行も笠ぬいで見る富士の山

という句をはじめ、いくつかの富士山に関する句が添えられていた★12。いずれも富士山の美しさを礼讃するものである。漱石にも、なんの苦労もなしに自然物としてたまたまそこに存在している富士山を素直に賛美していた時代が存在していたのだ。一方、あいだに2年間のロンドン留学も挟み、明治40(1907)年になると、

蹴爪づく富士の裾野や木瓜の花

と富士山のすそ野を歩いていて、つまづいてしまった自分を風刺する句へと変化している。富士の美しさを表現する句ではない。自分の失敗を披瀝するだけでなく、ボケた行動をとってしまった自身と木瓜の花を掛けてみせる余裕が感じられる。

ナウマン象が目にした富士山

漱石が『三四郎』を朝日新聞紙上で連載したのは、富士山のすそ野を歩いていて、けつまずいてしまった翌年、明治41(1908)年★13である。アーネスト・サトウが「この景色に勝るものは世界中どこにもないだろう」という感想を抱いてからまだ50年も経過していない。そして、『三四郎』連載からのちの一世紀で、近代地質学・火山学はめざましい発展をみせ、富士山の成り立ちについてもだいぶ明らかとなった。

fig.2はその成果のひとつである★14。おおくくりには、富士山は「3階建て」といわれる。なにもない平なところに、一回の活動で現在の規模・かたちの富士山ができたわけではない、ということだ。この図からわかるように、まず愛鷹火山の北に小御岳火山が形成され、小御岳火山を足場として、それを覆い尽くすように古富士が、さらにそれを覆って新富士がつくられた。小御岳火山の下には先小御岳が存在している、ということを重視すれば、「4階建て」というべきかもしれない。ちなみに、いくつかある5合目のうち、富士スバルラインの終点、吉田口5合目に設けられた広い駐車場は、小御岳火山が少し顔を出している「平地」に作られたものだ。


fig.2──富士山の成り立ち。おおくくりには「4階建て」、もしくは「5階建て」の構造をしている。藤井(2004)☆1より引用
☆1──藤井敏嗣(2004)「富士山の地下構造とマグマ」、日本火山学会公開講座04、
http://www.kazan-g.sakura.ne.jp/J/koukai/04/2.pdf (2024年5月31日閲覧)


年代の面からも整理してみよう。fig.3は約12万年前、現在よりも一回前の温暖期の関東の様子だ★15。一念発起、関東平野のどこかに家や土地、マンションを購入し、現在も苦労をしてローンを返し続けている方々にとっては目を背けたくなる図かもしれない(私もそのひとりだ)。富士山はこの図の範囲からやや外れ、より左手側に位置しているはずだが、約12万年前当時、どんな様子だったのだろう。fig.2と照らし併せてみると、新富士はもちろん、古富士も存在しておらず、愛鷹火山と小御岳火山があるのみだ。約12万年前といえば、ホモ・サピエンスが、何度目かの出アフリカを試みていた時期であり、この極東の島にある大きな浅い海、古東京湾のほとりには、まだ誰もたたずんではいない。ナウマン象は、まだサピエンスに出会っておらず、この世の春を謳歌していた。ただ、彼ら彼女らの目にもまだ巨大な富士山は映っておらず、箱根火山の先には平凡なサイズの活火山が南北に並んでいたことになる。地質学的な時間スケールでは、漱石が広田先生に語らせたほど富士山は、「昔からあったもの」ではないことになる。


fig.3──約12万年前の関東およびその周辺の鳥瞰図。増田(1989)☆2より引用
☆2──増田富士雄「古東京湾のバリアー島、4潮汐三角州とバリアー島(まとめ)」(『日本地質学会第96年学術大会見学旅行案内書』、1989、188〜199頁)

家康の富士、北斎の富士

眼下に小田原城を眺めつつ、豊臣秀吉と徳川家康が並んで立ち小便をする、いわゆる「関東の連れ小便」は、構図の面白さから、フィクションと切り捨ててしまうのが惜しいエピソードのひとつだ。そこでの秀吉の提案、草茫茫であった関東平野丸々、「関八州をやろう」も、それを受諾した家康の思慮も、その後の展開を知るわれわれとしては、歴史の妙に唸るほかない。

家臣たちが止めるのも完全無視して、家康が江戸城に最初に足を踏み入れたのが、天正18(1590)年。fig.2と対比するまでもなく、新富士の時代であり、家康は現在われわれが見ている富士山と同じものを見たことになる。

元旦の朝、実家で開く分厚い新聞には、かならず「間違い探し」が載っている。じつは、現在の富士山と家康が江戸入城のとき目にした富士山は、元旦朝刊の「間違い探し」にも採用できないほどまったく異なっている。現在の富士山には、南東側の斜面中腹におっきな穴があいているのだ[fig.4]。家康入城時には、この穴はなく、今より対称性にすぐれ、なめらかな斜面を有する富士山だった。


fig.4──富士山の南東斜面に開いた大きな穴、宝永火口(Wikimedia Commons☆3より/撮影=Alpsdake/CC 3.0)。
☆3──https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Mount_Hoei_from_Jyuriki.jpg (2024年5月31日閲覧)


江戸幕府でいえば、生類憐みの令で知られる五代将軍綱吉の治世の晩期、宝永4(1707)年に、富士山は山頂火口からではなく、南東側の土手っ腹から大噴火を起こした。富士山の噴火史のなかでは珍しい爆発的な噴火だ。噴火の衝撃は江戸まで届き、戸や障子がバタバタと音を立てたらしい★16。また、空中へ吹き上げられた火山噴出物は、風に乗り東へと流された。江戸では、噴火から2週間で約4cmの火山灰が積もった★16。もちろん、より富士山に近く、風下にあたる現在の神奈川県西部では厚さ数十cmの降灰があった。

江戸の街に降り積もった厚さ4cmの火山灰はすっかり掃除されてしまい、今では目にすることができないが、富士山の脇腹に開いた穴は、300年経過した現在も、くっきりと残っている[fig.4]。先ほど紹介した吉田口とちょうど反対側、富士宮口5号目から、それほどのアップダウンがなく、この宝永火口の縁まで歩いていくことができる[fig.5]。


fig.5──富士宮口五合目付近から見ることができる宝永火口。 左手、宝永火口へと下る登山道の人との対比で火口の大きさがわかる(2011年6月22日撮影)。


北斎の『冨嶽三十六景』が世に出はじめたのは北斎71歳、天保2(1831)年であり、宝永噴火からすでに100年以上経過している。宝永噴火について学んで以降、『冨嶽三十六景』を眺めて驚いたことのひとつは、どこにも宝永火口が描かれていないことだ。この北斎のこだわりは、「甲州三嶌越」で頂点に達している[fig.6]。巨木を配置することで、宝永火口の凹みと宝永山の出っ張りを隠したのだ★17。もう意地でも、という感じだ。素人の勝手な人物評であるが、あれほど常識にとらわれず、さまざまな可能性を模索していた北斎も、富士山にあの穴が開いていることは許せなかったらしい。


fig.6──北斎の『富嶽三十六景』のひとつ、「甲州三嶌越」(Wikimedia Commons☆4より引用)
☆4──https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mishima_pass_in_Kai_province.jpg(2024年5月31日閲覧)


だが、漱石の富士山を見る目が変わったように、北斎にもやや変化があったのかもしれない。北斎は『冨嶽三十六景』の完結に前後して、天保5(1834)年、すぐに『富嶽百景』の創作に取りかかる。御年74歳、元気だ。この『富嶽百景』(正確には102景ある)でも宝永火口を描かない、というこだわりはそのままだ。しかし、なんと宝永噴火の様子そのものを描いている[fig.7]。表題は「宝永山出現」。北斎は岡本太郎が喝破する以前から「芸術は爆発だ」と考えていたと思われるが、爆発そのものの一瞬を切り取ることに興味が向いても、その結果生じた穴ぼこは描かない徹底ぶりは、むしろすがすがしい。一方で、宝永噴火の際に生じた小さな高まり「宝永山」は描いている[fig.8]。


fig.7──北斎の『富嶽百景』のひとつ「宝永山出現」。宝永火口を描いていない北斎も、宝永噴火そのものは描いている(Wikimedia Commons☆5より引用)。
☆5──https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:富岳百景-Mount_Fuji_of_the_Mists_(Vol._1);_Mount_Fuji_of_the_Ascending_Dragon_(Vol._2)_MET_LC-JIB108_a_b_a_008.jpg (2024年1月11日閲覧)。


fig.8──北斎の『富嶽百景』のひとつ「宝永山出現・其二」。
富士山の右手の斜面に宝永山が明瞭に描かれている(Wikimedia Commons☆6より引用)
☆6──https://commons.wikimedia.org/wiki/File:富岳百景-Mount_Fuji_of_the_Mists_(Vol._1);_Mount_Fuji_of_the_Ascending_Dragon_(Vol._2)_MET_LC-JIB108_a_b_a_009.jpg(2024年5月31日閲覧)。

義経にとってのピーク──屋島

本項で先に紹介した朝鮮通信使の風景観について、私は西田正憲の『自然の風景論』★9で学んだ。同じ本のなかで彼は、風景の流行り廃りについても触れている。たとえば瀬戸内の風景について、「既存の展望地が軒並み衰退し荒廃していることは多島海のパノラマ景に人々が魅力を感じなくなってきたことを示している。多島海のパノラマ景は飽きられたという意味で消費しつくされたのである」とまで書いている。多島海のパノラマ景とは、まさに朝鮮通信使が絶賛した風景にほかならない。その例として挙げられているのが、屋島のケーブルカーの廃止である。

この屋島、あまり讃岐に足を踏み入れたことがない私には、今でも充分、魅力的、エキゾチックに映る。16歳からの約6年間、奥州平泉の藤原氏のもとで過ごした源義経がここで大暴れしたのか、と考えるだけでかなりの大幅加点。それにしても、この平らで広い山容はいったい何なのだろう[fig.9]。今回論じてきた富士山と成り立ちがまったく異なることだけはわかる。


fig.9──高松空港に着陸する寸前、機内からスマホで撮影した屋島(2023年12月22日)。屋島は現在、陸続きになっている。山頂部が平坦で広いという特徴をもつ。


例によって、「20万分の1日本シームレス地質図V2」を見てみよう。fig.10に示したように、屋島の山頂部は明るい黄土色で示した岩石で覆われている。約1,400万年前に瀬戸内地域に広く噴出した溶岩で、瀬戸内火山岩類と呼称されている。これが山頂部を広く覆っているため、風化・侵食をまぬがれ、山容を保っているわけだ。すなわち、風化に強い固い岩石の存在が地形に大きな影響を及ぼしていることになる。


fig.10──高松市内および屋島付近の地質。地理院地図で「20万分の1日本シームレス地質図V2」を3D表示。背景は標準地図(2024年1月11日閲覧)。高松港の東にある屋島の山頂部は、明るい黄土色(瀬戸内火山岩類)で覆われているのがわかる。


今回は、垂直的な「最果て」、それも高所側の日本代表として富士山について論じてきた。富士山は、屋島のように、山頂付近になにか固い石があって、それが風化・侵食にあらがって山の高さを維持しているのではない。火山噴出物が上に積み重なるような、穏やかな噴火が連続することで山容を保ってきたのだ。

火山学者の矜持──富士山の噴火史

このへんで、富士山の成り立ちについておさらいしておこう。富士山は、4階建ての構造をしている。まず、先小御岳火山、小御岳火山が形成され、それらを覆い尽くすように古富士が、さらにその上に新富士の噴火があった。新富士火山の噴火の歴史は過去1万年間である。そして、その新富士火山の活動期のなかで、ごく最近、宝永4(1707)年に、宝永噴火があり、江戸にも大きな影響を及ぼした。

これで、富士山の成り立ちのごく概要を押さえている、とは思うのだが、それでは、これまで本気で富士山の成り立ちを研究してきた、もしくは現在研究している研究者の皆様に申し訳が立たないかもしれない。最後に火山学者の本気の一端を感じて頂いて本項を閉じよう。

まず、fig. 11を見ていただきたい。これは、地質図Naviで「シームレス地質図V2」を表示したものだ。1/20万の縮尺で日本列島の地質の概要を表現したものである。紫色で塗られているのが、過去1万年分の新富士火山の噴出物を示す。続いて、fig. 12。地質図Navi上で、「富士火山地質図(第2版)」を表示したものだ。これは1/5万の縮尺で表現した火山地質図であるが、fig. 11とはまったく別の富士山に見えないだろうか。左に並んだ凡例の連なりを見るだけで気が遠くなる。自然科学的には、いかに富士山がさまざまな規模の噴火を繰り返してきたのか、ということが実感できるだろう。さらに、本項の裏テーマ「最果てが見たい」という人間の欲求という意味で、研究者の矜持も感じとることができる。


fig.11──富士山とその周辺の地質図。地質図Naviで「20万分の1日本シームレス地質図V2」を表示。背景は地形陰影図(2024年1月10日閲覧)。この解像度では新富士火山の噴出物はすべて紫色で表示されている。



fig.12──富士山の地質図。地質図Naviで「富士火山地質図(第2版)」を表示。背景は地形陰影図(2024年1月10日閲覧)。1/5万の解像度にすると、新富士火山は無数の噴出を繰り返していたことがわかる。

おわりに

本稿を書きながらあらためて思ったことは、現在のような均整のとれた単独峰・富士山が存在していることのはかなさである。地質学的な時間スケールではほんの一瞬。われわれは、斜に構えている場合ではなく、この瞬間の輝きを素直に楽しむべきなのだ。幸い富士山は山梨県・静岡県民だけのものではなく、遠く近くに、そしてさまざまな方向から眺めることができる[fig. 13]。


fig.13──富士山可視マップ。『スーパー地形』の「重ねる地図作成」機能で、上を「可視マップ(富士山)」、下を陰影起伏図で表示(2024年1月10日閲覧)。赤で塗られた範囲からは富士山を眺めることができる。


科学研究では、一般に、「いかにして」の問いには答えられるが、「なぜ」に答えるのは難しいといわれる。富士山の地質学的・火山学的研究も例外ではない。たとえば、fig. 2は、またfig. 12でさえ、「いかにして」富士山が現在のかたちになったかを示したものといえよう。この論考でもそうであるが、「なぜ」日本で一番高い山がそこにあるのか、という点に触れていない。本気で富士山を研究している火山学者のひとり、萬年一剛は、近年の著作『富士山はいつ噴火するのか?』のなかで以下のように述べている★16。

「いろいろな研究者が、これまで富士山が大きい理由や玄武岩を噴出している理由について語ってきたが、実際のところ、どれひとつとして日本の火山学者の大多数を心から納得させる説明にはなっていない。」

いかに難問であるかがわかる。それが答えのある問いなのかどうかは不明だが、研究者は世代を超えて永遠に追い求めるのだろう。

冒頭で紹介した椎名林檎の『最果てが見たい』は、あるアニメ映画の主題歌であった★18。主人公は、北斎の娘であるお栄。画作にしか興味がなさそうな北斎に子どもがいることも少し驚いたが、そのお栄が親父・北斎について、興味深い証言を残している。

「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。」★19

この80歳を超えた北斎の様子は、数え75歳の北斎自身が『富嶽百景』の初編あとがきに寄せた百数十歳までの決意表明と将来計画★20からも裏打ちされる。ともかくも、われわれは、いつの世代の北斎も自分の技倆に満足せず、研鑽を積み続けた恩恵を受けている。それは、45歳『おしおくりはとうつうせんのづ』[fig. 14]と70歳代前半『神奈川沖浪裏』[fig. 15]を並べてみるだけで、素人目にも明らかだ。


fig.14──「おしおくりはとうつうせんのづ」。1805年、北斎45歳の作品(Wikimedia Commons☆7より引用)。
☆7──https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Oshiokuri_Hato_Tsusen_no_Zu.jpg(2024年5月31日閲覧)。


fig.15──『冨嶽三十六景』のひとつ「神奈川沖浪裏」。1830〜1834年、北斎70歳代前半の作品(Wikimedia Commons☆8より引用)。
☆8──https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg(2024年5月31日閲覧)。


それにしても、この80を越えた天才北斎の嘆き。そういうじじばばになることが果たして幸せなのかどうかはわからないが、少なくとも、われわれ一般人がいくつになろうともスランプで悩む必要がないことだけはわかる。



謝辞

神奈川県温泉地学研究所の萬年一剛氏には初稿を読んでいただき、有益なコメントを多数頂いた。記して感謝したい。






★1──https://www.uta-net.com/song/186068/(2024年1月12日閲覧)
★2──https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・マロリー#「そこにエベレストがあるから」(2024年1月9日閲覧)
★3──アーネスト・メイスン・サトウ『一外交官の見た明治維新』(鈴木悠訳、講談社)、664頁
★4──「われわれは富士山の風景は美しいと思い、日本の誇りだと思う。(…中略…)しかし、江戸時代に来日した朝鮮通信使の一行は富士山を評価しなかった。(…中略…)彼らは、富士山よりも本国の金剛山の方がすぐれているとみなし、日本で最高の風景は瀬戸内海の鞆の浦だと指摘した」。西田正憲『自然の風景論──自然をめぐるまなざしと表象』(アサヒビール、2011)333頁
★5──村上春樹『職業としての小説家』 (Switch library、2015) 313頁
★6──マイルス・デイヴィス+クインシー・トゥループ『マイルス・デイヴィス自伝』(中山康樹訳、シンコーミュージック・エンタテイメント、2015)511頁
★7──廣川智貴「醜い山から崇高な山へ──B・H・ブロッケスの詩「山々」をめぐって」(鈴木寿志+伊藤孝+高橋直樹+川村教一+田口公則編『変動帯の文化地質学』[京都大学学術出版会、2024]340〜355頁)
★8──石川美子『青のパティニール──最初の風景画家』(みすず書房、2014)352頁
★9──西田正憲『自然の風景論──自然をめぐるまなざしと表象』(アサヒビール、2011)391頁
★10──https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html(2024年1月9日閲覧)
★11──https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html(2024年1月9日閲覧)
★12──村上龍昇『富士千句集と作家群像』(静雪文庫出版部)237頁
★13──https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石(2024年1月9日閲覧)
★14──http://www.kazan-g.sakura.ne.jp/J/koukai/04/2.html(2024年1月9日閲覧)
★15──増田富士雄「古東京湾のバリアー島、4潮汐三角州とバリアー島(まとめ)」(『日本地質学会第96年学術大会見学旅行案内書』、1989、188〜199頁)
★16──萬年一剛『富士山はいつ噴火するのか?』(筑摩書房、2022)224頁
★17──https://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol5/hokusai/mishimakoe/(2024年1月9日閲覧)
★18──https://ja.wikipedia.org/wiki/百日紅_(漫画) (2024年1月12日閲覧)
★19──飯島虚心『葛飾北斎伝』(鈴木重三校注、岩波文庫、1999)、418頁。現代語訳は以下のウェブサイトから引用。https://ja.wikipedia.org/wiki/葛飾応為(2024年1月11日閲覧)
★20──https://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽百景_(北斎)#CITEREF永田2000(2024年1月12日閲覧)




いとう・たかし
地質学、鉱床学、地学教育。茨城大学教育学部教授。NHK高校講座「地学」講師(2005〜12)。主な共著=『地球全史スーパー年表』(岩波書店、2014)、『海底マンガン鉱床の地球科学』(東大出版会、2015)など。主な論文=「自然災害に対する危機意識と実際の行動──フィリピン・ヴィサヤ地域の場合」(単著、2017)、「青森県深浦地域の新第三系マンガン鉱床から産出した放散虫化石とその意義」(共著、2019)など。



【Issue vol.1】
鏡の日本列島 1:「真新しい日本列島」の使い方を考えるために/Mirrored Japan 01: Towards the Development of “Mirrored Japan”/镜中的日本列岛 1:思考“全新的日本列岛”之使用方法


【Issue vol.2】
鏡の日本列島 2:日本列島のかたち──なぜそこに陸地があるのか/Mirrored Japan 02: The Shape of the Japanese Archipelago -- How nature shaped its current form/鏡中的日本列島-2:日本列島的形狀──為何那裡會有陸地?


【Issue vol.3】
鏡の日本列島 3:鉄なき列島/Mirrored Japan 03: Archipelago without Iron/镜中的日本列岛-3:无铁之岛


【Issue vol.4】
鏡の日本列島4:芭蕉と歩く「改造」後の日本列島/Mirrored Japan 04: The “remodeling” of the Japanese archipelago and its expression in the works of Basho/镜中的日本列岛-4:与松尾芭蕉同游“改造”之后的日本列岛


【Issue vol.5】
鏡の日本列島5:「お国柄」を決めるもうひとつの水/Mirrored Japan 05: Water from deep determined the characteristics of the Japanese archipelago/镜中的日本列岛-5:决定列岛特征的深层之水


【Issue vol.6】
鏡の日本列島6:列島の肥料(前編)/Mirrored Japan 06: Fertilizer of the Archipelago (Part 1)/镜中的日本列岛-6:列島的肥料(前篇)


【Issue vol.7】
鏡の日本列島6:列島の肥料(後編)/Mirrored Japan 07: Mirrored Japan 07: Fertilizer of the Archipelago (Part 2)/镜中的日本列岛-7:列岛的肥料(后篇)

鏡の日本列島8:『最果てが見たい』──それぞれの富士
Mirrored Japan 08: “I want to see the very end”—Each Mt. Fuji
/ 镜中的日本列岛-8:“我想看到最后”——每座富士山
伊藤孝/Takashi Ito

協賛/SUPPORT サントリー文化財団(2020年度)、一般財団法人窓研究所 WINDOW RESEARCH INSTITUTE(2019〜2021年度)、公益財団法人ユニオン造形財団(2022年度〜)